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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ九(1/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

 罰ノ九:下宿に郵便が届き、
     楠原は実家を訪ねざるを得なくなる。
     その後田嶋屋を訪ね、
     静葉に夏頃約束していた話をする。
     それは別れの知らせでもある。

イントロダクション
序説  罰ノ一  罰ノニ  罰ノ三  罰ノ四
罰ノ五  罰ノ六  罰ノ七  罰ノ八  罰ノ九

(文字数:約2800文字)


罰ノ九 義に絆される


「腕は折らなくても済みそうだね」
 甘い食い物で辛うじて飢え死にだけは免れた、とは言えまだ動けずにいた中で聞こえてきたその言葉に、オレは運が良いのだと確信した。生まれ落ちた場所で物心ついた頃からそうした話ばかりを見聞きしていなければ、とてもそうは思えないのだろうが。
 細工をしなくとも見すぼらしく見えてくれる事は助かる。手足や目をつぶされてしまうよりは、まだ機会を見つけて逃げ出せる可能性が残る。
 人買いの中では比較的人間が出来たばあさんで、むやみやたらな折檻を加えなかった。子供を手に入れる度男所帯に赴いては、その中の誰かが父親だと、小遣いなり幾らかの援助物なりをせびる。
「自分が産んだ」
 と毎月のように、年齢も性別もまちまちな新しいガキを連れて来るので、頭がおかしくなったのだと出会う人ごとに嘲笑われてもいたが、オレは賢いやり口だと思っていた。男児であれば男手を常に必要とする屋敷に売り渡せもする。
 ガリガリに痩せ衰えたオレの場合は、まず働き手になど望まれまいが。
「オメェ」
 御立派な門扉の片端に、邪魔に見えるように座り込んでやっていたら、声が降ってきた。
「この先なりてぇもんはあるか」
 見上げた顔は日差しの陰になって暗かったが、年寄りだって事は分かる。帽子も着物も羽織も、帯から下がった印籠に根付もこれ見よがしで、この屋敷の主かそうでなきゃ、隠居してたって毎日を大威張りで過ごしていると知れた。
「ある」
 ほう、とそのジジイは日を背に受けて立ったままでいる。
「ケーサツだ」
 クックッと、笑いはしたが俺の目の前に屈み込もうとはしない。 
「警棒振り回して、人でもぶん殴りてぇか」
「それで腹がふくれてくれるならそうする」
 ふん、と門から中を覗き込んで、ばあさんの姿を見つけたらしく二、三回頷いた。
「ケーサツは悪いヤツをつかまえる、仕事なんだろ」
「ああ。俺たちには天敵だ」
「それはちがう」
 オレは、門に背をもたれてもいなかったし、中を覗きもしなければ、ジジイを見上げていた目線も逸らしてそっぽを向いていた。
「本当に悪いヤツはもっと他所にいて、自分たちが悪い人間だなんて、気付いてもいない」
 ジジイは一瞬だけニヤつくのをやめて、
「面白え」
 と笑みを広げながら、オレに右の手を向けて来た。手のひらに指の向きでオレは、掴んで立ち上がれ、という意味だと分かったのでそうした。
 立ち上がると日の光がそれてジジイの顔形がはっきりしてくる。ジジイはすぐに手を離したが、汚れたはずの手を何かで拭く仕草も見せなかった。
「サダカズ」
「オレの名は……」
「どうせ要らん名だろう。捨ててしまえ」
 それもそうだな。
「どうする。オメェが大人に成り切るまでは、俺がきっちりオメェの身柄を、守ってやってもいい」
 ふむ、とオレはガキなりに頭を使いながら聞いていた。
「だが大人になった途端にオメェさんは、俺から守られていた分量の、恨みやら妬みやら、呪いなんかを全部まとめて、ひっかぶる事になるんだぜ」
 オメェ、にだとしても、「さん」を付けながら話をされたのは初めてだ。
「それで済むなら安いもんだ」
「安いと、思うか」 
「どうせオレはこのままでも、近いうちにのたれ死ぬ」
 帽子を取ったジジイの頭はツルツルにはげ上がっていて、あごの下にまで肉が付いてもいて、どこからが額か首だかも分からない。
「決まりだな。契約、締結ってとこだ」
 帽子で門の内側を差して、オレに入って良いと知らせてくる。ばあさんの相手をしながら外のオレにチラチラ目をやっていた連中は、主人が帰る前に当然追い払うつもりでいたのに、ギョッとした様子だったが。
「肩車でもしてやろうか」
「かたぐるま、って何だ?」
「知らねぇか。将来、有望だな」
 その会話を最後にオレは、親父以外の前では長く口を開かずに過ごした。親父に命じられるまでもなく、その方が皆、オレが目の前にいても気にもせず、様々な話を好き放題に語り聞かせてくれるからだ。

「ただいまー」
 と楠原は日中出て行く度に帰る度、下宿の女将に必ず挨拶を聞かせる事にしている。
「ああ。楠原くん」
 わざとゆっくりめに靴を脱いで、女将から何か世間話でもあれば、機嫌良く耳を傾ける事にもしている。その日はブーツを履いて出たので、上がり框に腰掛けて、玄関へと歩み出てくる女将には背を向けていたのだが、
「珍しいね。御実家から郵便、来てるよ」
 ブーツを片方脱いだ時点で手を止めて、振り向いた表情は、死んだはずの者が生き返った話でも聞かされたかのようだった。
「郵便……?」
「うん」
 女将は少しばかり不思議に感じたが、素直な驚きが出過ぎたものと判断した。
「本当だ」
 手渡された封筒の差出人を見れば確かに、楠原大喜の親の名前に実家の住所、として記憶しておいた文字面が、震えて歪んだ筆使いで記されている。
「ほらね。子供の側で思っているより、気にされてるもんだよ」
 女将がそう言って微笑んだのも、普段「次男坊だし期待されてない」と、楠原から冗談混じりに聞かされてきたからだが。
「何が、書かれてあるんだろう……」
 廊下に上がっても楠原は、手の内の封筒に目を落としている。
「筆無精の親御さんが、がんばって書いてくれた様子じゃないか。返事、書いておやりよ」
「あんまり珍しいもんだから……、ちょっと怖いや」
「代わりに書いてやろうか」
 親元を安心させるのも自分の勤めだと、女将は心得ての軽口混じりだ。
「『楠原くんの夜遊びが心配です』って、親御さんに言い付けてやるさ」
「や、やめてくれよぉ。手紙だけならともかく下宿にまで、押し掛けて来られちまう」
「ついでにあんたの部屋も掃除してもらいなよ」
「やーなこったー」
 廊下から自分の部屋に入って戸を閉めて、笑みを消し出そうになる溜め息は、口を手で塞いで押さえ込んだ。
(どういう事だ?)
 密偵宛に送られた手紙や電信は、局留になって、一旦上層部で預かっての手渡しか、偽装先の住所に送り直す、場合もあるとは聞かされていた。とは言えそれは余程の特例で、自分には有り得ない。有り得るはずがない。
 自分の本来の名前宛に、連絡を寄越す者など、いるわけがない。
 封を破って中を見ると、まずは二つに折られた白い便箋が引き出された。しかし途中から手触りが変わり、葉書を包んでいたものと分かる。
 そしてその、葉書の表書きが目に入った途端、震えた指から取り落とし後ずさった身を、背後の扉に張り付かせた。足元の畳に落ちた官製葉書が、動き出し、噛みつきに来るとでも言うかのように。
 そのまましばらく動けずにいた。暑くもなければ年の瀬に差し掛かる時期だというのに、じっとりと嫌な汗をかいてもいた。


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