2024年に置いて行きたい話
はじめましての人も、
前から知ってる方も、
ごきげんよう。
偏光です。
なんのはなしですか風味だけども、
それを銘打つには、
一族的ペーソスが強いな。
(文字数:約1600文字)
私の祖父は、
味方の戦車に轢かれるという、
珍妙な事故に遭ったおかげで、
治療も受け故郷に帰る事ができた、
南方戦線からの生き残りである。
無事に生きて帰れたという事は、
同郷の仲間を幾人も見捨て、
何ら戦果も挙げなかった者だと、
当時の故郷の風当たりは冷たく、
元々村八分にあっていた事から、
姉たちが皆他所の土地に嫁ぎ、
一人だけ実家に残されていた、
末娘である祖母の婿養子にさせられた。
曽祖父が金貸しだったので、
暮らしぶりは裕福かつ、
表向きは誰も文句など言えなかったが、
戦時下においてはその資産も絶え、
祖父は自らの評判と、
地に堕ちた婚家の評判を、
共に立て直すべく、
戦後を懸命に働き続けた。
実家から分けてもらえた、
一家が暮らせる程度の田を耕し、
婚家からは離れたミカン畑の一角にも、
足繁く通い世話をし続け、
村の仕事には率先して精を出し、
「あん家はともかく、
あん人には信用の置ける」と、
長男として生まれた父は、
就職の際に便宜を図ってもらえ、
実は地方ミスコン優勝者である、
母との縁談も持ち上がるまでになった。
私が生まれた年に還暦を迎えた後も、
玄関先に掲げてあった、
二ヶ月分の予定が書き込める黒板は、
常に祖父の所用で埋まっていた。
私が小学校一年生の冬、
祖父は六十六になった年、
バイクを運転中に、
トラックから追突されるという、
突然の事故で亡くなったものの、
還暦を迎えた時点で、
覚悟は決めていたのだろう。
遺影に遺書に、
辞世の句を彫った石碑までが、
整えられ準備されていた。
惜しむらくは、
硬い表紙の糸綴じとはいえ市販のノートで、
署名捺印はしてあったものの、
公正証書としては届けられていなかったので、
「こがんもんば早々と、
用意しちょったけんで、
連れ去られてしもたったい」
と父によって納屋のどこかに、
放り込まれてしまった。
再び見つけ出され中を読まれるのは、
父が失踪し、
一週間で戻ったものの職を失い、
アルコール依存症になった後である。
「我が家の土地に建物は、
克己(父。仮名)に任せる。
子孫代々守り抜いてもらいたい」
と堂々たる墨文字で記してあって、
「ほらな。
そげん書いてあるじゃろうと思って、
オイは読みたくなかったとさ」
納屋の奥底に放り込んだのは、
突然の悲しみのためだけではなかったと、
数十年越しに情けない告白であるが、
そこはまだいい。
我が家の土地も何も、
おじいちゃん、
建物も水田もミカン畑も全部、
登記されてない。
正式に「我が家の土地」とは認められない。
もちろん相続税等も支払っていない。
おそらく数百年以上に渡って、
この集落はきっと誰もが、
そんな感じ。
祖母の七回忌を期に、
建物も土地も処分致しまして、
私が故郷と呼べる土地は、
この国から、
キレイさっぱりなくなりましたとさ。
あくまでも物質界においての話だが。
おまけのアドベントカレンダー
しんみりした気分を救済。
Aimer, C’est agir!
ヴィクトル・ユゴーの絶筆
「愛することは行動すること」
並びに自らのキャッチコピー群。
「由緒正しい馬の骨」
「日の光が眩し過ぎる人の役に立つ」
「ユーモアだけは添えるように心がけた
ペーソス&シビア」
以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。