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そもそも空海

 どんな人だったのか、
 何をやった人であるのか、
 といったところを、

 なるべく歴史に残っている事実と、
 空海本人が書き残したらしい略歴のみの情報で、
 端的に表してみたい。

 繰り返すが私自身は、
 空海その人と、
 「お大師様信仰」に割と好印象を持っている。

 しかしながらある人物を信仰しどれほど崇拝するかは、
 なるべくなら個々人の理解と感覚に委ねたい。 


 今の香川県の、
 そこそこ裕福なお役人の家に生まれた、
 真魚(まお)君は、

 跡継ぎになると期待されていたのに、
 仏教にどハマりしちゃって、
 親からは反対されたけど出家しちゃいました。

 そこからしばらく諸説あって不透明なんだけども、
 「唐に留学したいから遣唐使船乗せて」って願い出て、
 許可が出たくらいには身分確かな僧侶だったらしい。
 (多分この辺には「空海」と名乗ってる。
  少なくとも最澄は「海阿闍梨(かいあじゃり)」と呼んでる。)

 国からは留学期間20年で送り出されたのに、
 2年で帰国しちゃって、
 「何で?(呆怒)」ってしばらく九州に留め置かれる。

 だけど嵯峨天皇が即位した途端に京に戻された。
 すでに仲良しだったみたい。
 (あと唐からたくさん宝物や経典持ち帰ってはいた。)

 仏教を教える道場を作りたいなって、
 今の和歌山県で良い土地ないか探してたら、
 偶然出会った女神様から土地もらえた。
 それが高野山

 やっぱり嵯峨天皇とは仲良しだったみたいで、
 「高野山下さい」って手紙送ったら、
 たったの1年で許可が下りる。

 それどころかすでに有名寺院だった、
 京都の東寺ももらえちゃう。

 東寺で布教しつつ、
 高野山で弟子たちの教育しつつ暮らしてたら、

 後継ぎになると期待していた、
 甥の智泉(ちせん)に先立たれて、
 仏教修めた身だってのにめっちゃ嘆き悲しむ。
 (そりゃそうだろう。むしろそうあってくれ。)

 その頃の高野山にはまだ、
 僧侶の教育施設と奥の院の御廟くらいしか、
 完成していなかったけど、

 根本大塔を始めとする様々な建築構想は残した上で、
 3月21日(旧暦)、奥の院御廟の地下に入られました。

 それ以降は僧侶たちからも信者たちからも、
 お大師様は生きている、
 って言われ続けているし、

 朝夕二食のご飯と、
 お風呂用のお湯を、
 僧侶たちは毎日運び入れています。

 

 んなわけないじゃん。

 ってええ他所から来た人は思わず口に出したくなりますよね。
 かく言う私も何回か喉元まで出そうになりましたよ。

 しかしながらそれは、
 キリスト教徒に向かって、
 「復活って嘘でしょw」と言うようなもの。

 徳光和夫さんに向かって、
 「長嶋茂雄って普通の人間じゃんw」と言うようなもの。

 そう。
 「貴方の推しはこの世にいないじゃないw」
 と言われるようなものだ。

 宗教か否かは問題ではない。
 人それぞれの信仰心こそが重要である事が、
 対象が変わり自分の立場に似通ったならば、
 容易にお分かり頂けるだろう。


 ちなみに、

 私も居合わせた場で、
 長年の信者さんが、
 「こんな事訊いて良いものか分からんのやけども(汗)」
 とためらいながら質問した事ですけれども、

 「お大師様のご飯て、
  どなたが食べてはんの?

 訊かれた僧侶は穏やかな笑みを浮かべて、

 「維那(ゆいな:奥の院で一番偉い人)さんが食べます」
 と答えて下さいました。

 「維那さんが不在の場合は位が高い順から。
  私も食べた事あります」
 それを聞いて長年の信者さんたちも、

 「スッキリしたー」
 「聞けて良かったー」
 「捨てるとかもったいない事するはずないって思ってたー」 
 と口々に言い合っていた事を、
 ここに書き残しておきます。 


高野山の旅まとめ

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