私は私のことを「おばちゃん」と呼んでもらえる関係性をイメージしてこのnoteを書いている。
落合さんが昔のnote、まとめながら気持ちを書いてくれてた。
有料部分の、この「まぁ良いか.」がちょっとわからないけど😊。
いい言葉だなぁ。
やるべきことをやる。その地位や立場で「やるべきこと」は当然ある。そのための地位や立場だから。ただそれだけなのだ。その地位や立場でなければ出来ないことがあるのならそれを実行する。その地位や立場でなくても出来るはずのことは無限にある。でも・・・。
私がこのnoteを書き始めたのは、そもそも私のことを知っている家族や身近な人たちに、自分が知った「ワクワク」やびっくりしたこと、凄いと思ったことを伝えたくて。自分にとって大切な人たちが、たまにでも私の文章を読んでくれたときに「へっ?そうなんだ」とか「そんなことあるんだ」とか「今、そんなこと起きてるの?」なんて思ってもらえたらいいなという気持ちから始めたnote。
このnoteというものや他のSNSで発信してみて思うのは、私は別に広大なSNSの海に向かってしゃべっている訳ではない。私が知ってるひとたちに向けてしゃべってる。
それには、まず自分が「楽しい!」「スキ!」「不思議!」と思えなければ、そもそも文章なんて書けない。まったく頭に言葉は浮かばない。2年以上続いているのは、毎日、次から次へと新しいことが起きて、時代が猛烈に変化していて、翻弄されるくらいなら、その波にこちらから乗っかった方が面白いし、生きている!という実感が持てる・・・、そんな気持ちも一面あって、ただただ「面白い」「なんだこれ?」とともに未来への不安を含めて浮かんできたことをとにかく文章にしておきたいという欲求。
そう、私としては自分との関係性が少しは築けている人、私のことを知ってる人、私が大切に思ってる人、そういう人に向けて書いてる。だからもし少々の書き間違い、表現の行き違い?とかあったとしても、「おばちゃん、あれは違うよ。」とか「そうおもってるんだ!」とか言ってもらえたりする関係性においての発信のつもり。というか、そういうつもりでなければとても自分の大切に思うもの、本気の気持ちはしゃべれない。
でもって、このnoteに自分の本当に身近な人に伝えたいことが書けているかというと、まだまだだ。
じゃぁ、なんで書けないのか。
少し話は変わる。
今の私には落合さんのnoteが必要で、落合さんが多くの人と対談・対話する番組を視聴することが必要で、他にも私が大切だと思うことを発信してくれる人たちの言葉を聞いて考えるこの時間が必要。 なぜか? 子供の頃から好きだったもの、そして会社員の生活を経て、痛みで家にいる時間を長く過ごすうちに身に着けたものから考えて行動した結果の「還暦過ぎおばさん」は、今起きている変化とこの先の時代を本気で知りたくて、自分のこれまで感じてきたこと、自分が「よし」としてきたものが、あまりにも漠然としていたけど、それが今ネット上で出会った人たちのおかげで「このまま続けていこう」と思えていることに感謝できるから。
単純に今私が出来ることを自分も楽しいと思いながらやり続けることしかないのだ。
立っていることが辛くて、ほぼパソコンの前の座椅子にいて、で、好きなパソコン作業が好きなだけ出来ればいいけど、それもとても辛い。でもとにかく今は本が読みたくて、信頼できる人たちの発信を聞きたくて、痛む筋肉を施術でほぐしながら今の世界を知りたいし、知って、感じて、空想したことを書いてみたい。話すことが楽ではないから、自分の話したいことは書くしかなくて、「読むことが得意な人」でないと会話が出来ないから、だから書く。
ただただ今は自分の人生の後半戦を私が信頼する多くの人たちの言葉を聞いて、この世界をイメージしたい。脳内メタバース。ネット空間のメタバースには、これも身体の不都合でとても入ることができないから、自分の脳内メタバースをひたすら拡張する。
そして、それが今の私の生きのびるために必要な事務なのかな。とにかく手を動かそう。頭を動かそう。生きのびるためにやりたくないことをやる必要はないのだから。ただ、生きのびないといけない。そのためにやりたいことをやる方法はある。とにかくその方法を知ってる人に繋がろう。他人と比べてのやりたいことは、それが違うと気が付いたときに、もっと辛い。自分で決めたことなら後悔しない。いや、何か違うと感じて、それまでを後悔する必要は本当はないんだと思う。でも気づいたときに、次の行動を起こせないと思うなら、私なら辛いかな。どうにかして次を考える。だってそれが面白いから。
刹那に生きる。
刹那を生きる。
あーあ。
www読んでしまった。(でもまた脳内メタバースが広がるwww)
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