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お金と時間と遊び 七緒栞菜

お金と時間と遊び。この三者の関係性について考えをめぐらせる。

時間を使って多くを稼いで、その他の時間で遊ぶ。
時間を使って遊んで(と書くと語弊があるのだが、今はそれ以外の表現が思い浮かばない)、少し(これもまた人による)を稼ぐ。

お金と時間という価値軸、それに遊びという視点が加わると、大きく分けてこのパターンに分かれるのではないだろうか。

遊びにおいて面白がる基準がどこにあるかによって、パターンが分かれる気がする。消費的に遊ぶのか、消化的(?)に遊ぶのか。

どこかに行くことや何かを買うこと、すなわち、自分の外部に遊びの目的をもつ人は、前者なのではないだろうか。それに対して後者の遊びは、することそれ自体に目的をもつ、すなわち、自分の内部に目的をもつように思える。例えば、絵を描くとか、音を奏でるとか、文章を書くとか、散歩をするとか。自己の内部とのすり合わせを楽しむような。

どちらのパターンでもよいと思う。
ただ、私は消化的に遊ぶことが好きなので、後者なのだと思う。

昨日友人に「栞菜さんは、自由にしていなきゃだめです~」と言われた。
他者から見ると、消化的に遊ぶ今の私の動きは「自由」に見えるのかな。
確かにそう見えるだろうなと思う。うんうん。

でも実際、楽しいけれど難しいな。と割と本気で思っている。

資本主義に絡め取られたくない。でも、資本主義の中で生きなければならないこともわかっている。こういうことを言いながらも、資本主義を否定したいわけでもない。資本主義が積み上げてきたものは確実にあるから。結局、資本主義と自由(本当はもっと違う言葉を使いたい…。語彙力)の間にいたいんだと思う。わがままだ。けれど、そういうあり方もできるのではないかと思っている。だから今、自分を使って実験をしている。そんな感じ。お金という資本だけではなくて、関係性という資本とかあると思うし。何を書いているんだろう今日。まとまらない。これぞ「取るに足らない頭の中」って感じだ。本当の私の頭の中。

お金と時間、コスパやタイパ。それだけに支配されないあり方でいたいんだと思う。働くことと遊ぶことと私という存在を一体化させたい。それが結果的に関係資本を築き、それがまた少しのお金としての資本にもなって、最終的に人生のコスパとタイパをあげることになっていたらいいのにな。(結局コスパとタイパかい)いや、高めたいのは人生の充実度かも。わからないけど。

わからないことを、わからないまま、とりあえず携えていこうか。(自分の心と握手)


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