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【完結】呼ぶ声はいつだって悲しみに変わるだけ〜「片目で立体視の星間飛行」観劇録④〜

【本文は読み終わるまでに約4分かかります。また、短編作品のうち一作品にのみ触れております。他の演目については過去の投稿をご覧ください。】

――辺境の星で見つかった父のやまびこと、明日ソラリスに発つ息子のこと。
(チラシ・パンフレットより抜粋)

 第一印象を述べよう。
 バッキバキにキマった舞台を見た。
 「エコーの星」は短編が連なる本作を締めくくる一編だ。ここだけの話だが、私はあらすじを読んだとき「短編集によくあるほっこり感動系のラストかね」などと浅はかな予想をしていた。そんな私自身に「お前は『VIVANT』(既にちょっと懐かしい)の予想すらひとつも当てられなかったんだから調子に乗るな」と言ってやりたい。

 この作品で観客が目の当たりにするのは「現象」である。具体的に説明すると、舞台上の宇宙で稀に発生する自然現象「エコー」だ。「人間の声と残像が、一定期間その場に残り、繰り返し反響して、やがて消えていく。限られた条件下でしか起きないとても珍しい現象」(以上、上演台本より一部抜粋)であるそれは、舞台の宇宙の趨勢にいっさい干渉しない。ただただ律儀に存在する「現象」を、あたかも神の視点で、私達は目撃することになる。

 登場人物は父(紅鮭弁当)と息子(新沼温斗)のふたり。
 明転とともに舞台上手側に姿が見えてくる父は、力なく座り込んで同じ台詞を繰り返す。「愛していたよ」とはまた、作・演出の嵯峨瞳らしくなく手垢のついた台詞だな……と見ていると、下手から現れた息子が、父の「エコー」に話しかける。息子は明日ソラリスに発つんだ、精密隕石予測のパイオニア・S社本社に就職するんだ、と言う。荒んだいかにもなダメ親父の残像と、未来の可能性に満ちた息子の現在……という構図は、実はその息子の姿すらエコーであり、しかも父のエコーはさらにもうひとつあって……という入れ子構造を徐々に露わにしていく。エコー同士の台詞は偶然噛み合いもして、けれど彼らの言葉は永遠に本人へ届かない。
 他の媒体で出来ない表現こそ舞台で見たいとしばしば思うが、「エコーの星」はまさしくそれだった。生身の人間が同じ台詞を繰り返し、ことばが噛み合うシーンが現れた瞬間のキモチよさ。舞台という生の時空で、役者の身体が架空の現象を表現するひととき。父の独白が溶暗に消えていく瞬間に去来する侘びしく切ない感情。父と息子という関係性ゆえに生々しく吐露されたはずの思いが、「現象」であるという事実を通してどこか無機質さをまとっていたのが味わい深い。

 本作を見終わったあと、ドラマ「きらきらひかる」(1998、フジテレビ)のワンシーンを思い出した。曰く「山奥で一枚の葉が落ちた。あなたはそれを見に行くか(大意)」という問いである。
 当時の私にはまったくピンとこなかった。なんなら黒川(小林聡美)の「その山にマツタケが生えているなら行く」という答えが一番腑に落ちた。正直、今でもマツタケ云々の答えのほうが実感が湧くし共感もする。ただ、「エコーの星」を見終えてから、山で葉が落ちるというありふれた現象も、なにか厳かな意味を感じるようになった。ただそこにあり、自然の摂理に則っている。それだけのことが、なんだかとても慈しみ深いことのような、それでいてシンプルなような。

 父子に共通する口癖に「驚天動地」とあったが、改めて調べてみれば「天を驚かし地を動かすこと」とあった。隕石災害と引力操作に深く関わるふたりにお誂え向きの言葉だろう。

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 終演直後に流れたピアノの優しさが忘れられない。
 小さなハコというには絶妙に間延びしがちな盛岡劇場タウンホールの空間をうまく切り取った照明がとりわけ印象的だった。


立て看板近影①
立て看板近影②
立て看板近影③

(文中敬称略)
(所属団体等は省略させていただきました。ご了承ください)
(文責:安藤奈津美)
(これ書いたら終わっちゃうんだよなあ……と逡巡してたらここまで時間がかかってしまいました。おわり)

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