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美の対極から美を叫ぶ〜もりげき八時の芝居小屋第187回公演高村明彦×藤原瑞基 往復戯曲ふたり芝居「地の底にて―At the bottom of underground-」鑑賞記〜

【本文は読み終わるまでに約4分かかります。予めご了承ください。】

 そう長くない逡巡の末、衝動のまま、仕事帰りの私は電車に乗った。
 言葉にしたい何かをもう一度きちんと見るために。

 昨日と今日、盛岡劇場タウンホールで上演されたふたり芝居「地の底にて―At the bottom of underground-」は、タイトルにもあるとおり、演者でもある高村明彦と藤原瑞基が往復書簡の要領でシナリオを構築したという。

チラシ表面
チラシ裏面

 発売されていた上演台本では、両者がどのシーンを担当したかが明記されており、しばしば納得したり驚いたりした。個人的な印象として、両者が探り探りながら自らのカラーを打ち出すなか、高村パートは相対する演者でもある藤原の属性を深掘りするトスを放つ一方、藤原パートは展開とセリフのインパクトで打ち返していたように感じられた。 ほぼ素舞台に近いステージは鈍いグレーのビニールシートが敷かれており、中央奥には、中高生向けと思しき机と椅子が横たえられていた。

 久々に2回も同じ舞台を見た理由はなんだろう。
 幾つかあるけれど、「エネルギーを浴びに行った」気がしている。60分をほぼ素舞台で持たせきった演者ふたりのパワー。冒頭の笑いをさらう(2回見に行って2回同じシーンで笑った。参った!)遭遇から、空から2回落ちてきた下痢がとにかく焼き肉のタレになっているという破茶滅茶な展開を経て、ふたりの過去を回想しながら「美」を追求するドラマを経て、脱力感強めのラストに着地する。
 文章やシナリオで本作の味わいは伝えきれないであろう点から考えても、舞台ならではの作品であったろう。上記の、何も知らない人に伝えたら「なんて?」と真顔で聞き返されそうな物語も、実際に見てもらえばたぶん一発で理屈は分かってくれると思う。なんならここ1、2年で生まれ倒している、如何にもインプレ稼ぎが狙いっぽい、ドラマや映画の旧Twitter考察アカウントユーザーに見せて理屈を捏ねさせてみたいくらいである。

 正直に言うと、初見の際、本作でいう「美しいもの」の定義が分からなかった。理屈を放棄した先にある「美亅ということかと考えたくらいである。
だが2回見てようやく、登場人物の対話で「美しいものとは何か」「先生自体が奇を衒っていないか」を勇気(藤原瑞基)が問い、田町(高村明彦)が「とりあえずこの教室にはない」「衒っていようがいまいが…」と正面から答えてはいなかったことに気づいた。そして問答のテーマは「ユニーク」に移り、勇気にとって紛れもなくユニークであった田町に衝撃を受けた彼は芸人を志していく。

 はぐらかされてばかりも癪なので、私なりの「美しいもの」を例に出そう。世に知られたポケットモンスターシリーズに出てくるポケモンの一種、ハクリューがまさしくそれである。
 確実な記憶では小学2年生の頃から愛してやまないハクリューは、私にとって非の打ち所なく美しい存在である。おそらく私の人生が終わるその日まで不動の「美しくて好きなポケモン第1位」であり、その美は永遠に変わらないだろう。
 とりあえず下記リンクからその御姿をご覧ください。そして出来ればファンになってください。

https://zukan.pokemon.co.jp/detail/0148

 この美しい存在に対し、あらゆる異論反論が想定されうるだろう。仮に私の財布を人質に取られ「『ハクリューは美しくありません』と言えば返してやる」と言われたら、血反吐を吐き五臓六腑を焼くような思いでそう言ってしまうかもしれない。それでも私の精神において「ハクリューはいちばん美しい」という定義は変わらない。そして財布を返されたら、その下手人は可能な限り痛めつけてやりたい。

 ところで田町と勇気にとっての「美しいもの」とはなんだろう。なんとなく察せられるのは、「美しいもの」とは見た目によって万人がそうだと言うものではないのだろうということだ。かの名画「モナ・リザ(正式名称:フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・ゲラルディーニの肖像)」ですら、実のところは美を感じている人ってそんなにいなくて、「あの有名な絵ね」くらいに思ってる人が世界の大半なんじゃないだろうか。そもそも万人が美と定めるものはそうなかろうし、たった一人が美と言うものは、その他大勢が拒んだとしても美とされうるのではないだろうか。

 役者・藤原は受けの芝居が巧いと感嘆した。高村のあらゆるボケをことごとく笑いに昇華し、中盤の切実な問いへの落差を創り上げていた。水を得たようにから騒ぎを繰り広げる高村の演技も、後半に勇気の独白を受け止める真摯なまなざしと相まって印象深い。
 たった二人、しかもほぼ素舞台で笑いと哲学、動と静を舞台に上げた本作は、観客たちにどう映ったのだろう。それぞれに残った心の像は、各々の「美しいもの」を映し出していそうだ。

 そして、本作のチラシに使われたビジュアルが如何に効果的だったかも触れておきたい。劇場に足を運んだ観客の大半は、チラシに起用された画像を念頭に置いていたのではないだろうか。舞台そのものののイメージに干渉しすぎず補強する……という有り様は実に興味深かった。


公演立て看板

(文中敬称略)
(所属団体等は省略させていただきました。ご了承ください)
(文責:安藤奈津美)

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