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社会派対話会の記録~いかに心理的安全性と「社会問題の話」を両立するか~

漠然と良くない状況なのは分かっているが、踏み込んで考えるのはかなり勇気が必要。

社会や政治について語り、行動することには、以上のような障壁が付きまとうのはではないでしょうか。

こんにちは。こだまっちです。対人支援職向けのサービス「helpwell」でコミュニティ運営に関わっています。

この記事では、helpwellのメンバーとゲストが集まり、「関心のある社会問題とそれらをどうすればいいか」というテーマで語り合った対話会を振り返ります。

helpwellは「支援の現場では他者へのケアが中心になり、支援者自身へのケアが後回しにされがちだから、支援職同士ありのままケアし合えるようにする」のが一つの大切な主旨です。なので分断や緊張を孕みやすい社会、政治について語る会を設けるのはハードルがありました。

それでも会を開いたのは、過去に複数回似たようなテーマで対話していたので、「実績」があることと、もし政治の力で、ケア、福祉に割かれる社会的資源等がこれ以上削減されれば、ケアやコミュニティが生まれる土壌すら危うくなり、目を背けない方がいいという思いからでした。

前置きが長くなりました。実際の会の内容を振り返っていきたいと思います。

(1)沖縄の基地問題を巡る対話~「内地」との距離感。深く知る難しさ~

①沖縄との出会い

この対話会では、一人沖縄在住の友人が参加し、沖縄に引っ越したからこそ分かった基地問題の根深さを語ってくれました。

教育関係の勉強をしていたが、社会科には関心が無かったとのこと。しかし沖縄に引っ越したことで転機が訪れます。

沖縄ではウチナー(沖縄の人)とナイチャー(「日本本土」の人々)を分ける会話が多かったといいます。何故そんなに分けるのか、背景に興味を持つうちに、基地問題に揺れる地域からの友人と、ジャーナリストに出会います。

特に友人とは何年も掛けて心を通わせ、ジャーナリストからも学ぶ中で、「本土」から基地を押し付けられ、負担を背負う沖縄について学んでいったそうです。

②学んだ後の葛藤

「沖縄を何も知らないと知った時、苦しかった」

「沖縄の人に基地について教えてくれ、というのも失礼に当たるのではないか」

「悲惨な戦争すら経験して来た人達が、基地反対で座り込みするのは尊重されるべきだが、沖縄のためにこれから何かしたいという若者が見たら圧倒されてしまい、ウッと引いてしまうのではないか。でも運動をポップにするだけが正解じゃない」

「賛成反対だけの単純な問題でも無い。(基地で働く人もおり)家庭や村で沖縄の人が基地を語り合うのは困難」

学んだ後に抱えた数々の葛藤。そして葛藤を得て、対話の場で友人から出た言葉の数々。私達は引き込まれ、出口無しにも感じる問題の一旦が見えた気がしました。

③いかに関わることが可能なのか

友人の話に対して、一人一人が思い思いの感想を述べました。他のジャーナリストから既に情報を得ており共感する人がいました。

一方「話を聞けばシンプルに協力したいと思う「本土」の人も多いだろうが、何ができるのか、生半可な気持ちでは関われない、となってしまうのではないか」という意見もありました。

またシンプルに「沖縄の基地負担を軽減させるべき」という意見もありました。

興味深かったのは「観光」「教育」という側面からも意見が出た事です。

・観光

観光の面では「リゾート地的なイメージが、歴史に思いを馳せにくくしている」という意見や、「戦跡等をダークツーリズム的に巡るのはどうか」というアイデアが出ながらも、言った本人が直後に「それだと現地の人の痛みに無思慮で、反発されるかな……」と葛藤を表明する場面もありました。

・教育

教育の面では、「沖縄のひめゆりの塔、広島の原爆資料館に行き切なくなった」という体験が共有された一方「沖縄の人でもガマを見に行くことで、戦争に触れたくなくなったという人がいる」との共有もありました。

また歴史教育の課題として、「原爆投下の日、終戦記念日等、特定の日が近くなると盛んに教育が行われるが、過ぎれば何もしない、という課題があるのではないか」という意見があり、「特定日以外も学ばれないといけないし、原爆投下なら、それに至った背景まで詳しく教育に取り入れる必要がある」という意見がありました。

「背景を学べば、被害だけでなく、加害の歴史にも触れられる」という意見もありました。

(2)福祉について目を背けられていないか

①知らないということ。知り方が分からないということ

沖縄の基地問題については「知ることにまず距離がある。関わり方も試行錯誤しなければいけない」ということでしたが、そもそもhelpwellに距離が近い福祉分野はどうでしょうか。「福祉の外にいる(と思っている)大多数の人々から、福祉も距離を置かれているのではないか」という問題定義をしました。すると以下の意見が出ました。

「介護でも高齢者医療でも『非行』からの更生でも、何が何でも目を背けたいというより、知りたくても、どう知ったらいいか分からないのではないか。福祉職はよく『仕事つらいでしょう』と言われるが、実際入ってみると面白さもたくさんある」

上の意見に対して共感する意味で「まずは関心持つことが、どのような実践に繋げるにしてもスタートだね」という発言が出ました。

②埋め難い距離もあるのだろうか

一方で、「簡単では無い」という主旨の意見もありました。

具体的には「ボランティアで関わった人と心を通わせるのに年単位かかった」という経験が語られました。(沖縄の友人と心通わせるまで長くかかった、という話と通じ合うものがあります)

心を通わせられるまで、相手の背景に関心を持ち続けられるでしょうか。確かに簡単ではありません。

また「根深い差別心をマイノリティに向けて持ってしまった人々と対話できるのか、心を通わせられるのか」という問題定義がありました。

③「簡単では無い」ことの背景は何か

「何故、マイノリティについて知ることが簡単ではないのか」問題定義をしたところ、マイノリティが声を上げづらい社会構造について指摘がありました。

例えば選挙では、衆院選において、一つの地区に一人だけ当選する小選挙区制がありますが「死に票が多数生まれ、マイノリティの声が反映されない一つの例ではないか」という意見がありました。

また、「ダイバーシティという言葉は社会に氾濫しているが、社会に多様な人を受け入れる『器』が無い」という重要な指摘がありました。

具体例として、「就労移行支援の現場では利用者の意向や個性に沿って支援を行うが、就労先企業からは生産性を求められることが多く、意向や個性を活かすのが難しい」とのことでした。

そこから、生産性至上主義の「行き過ぎた資本主義」への疑問も定義され、「現場で目の前の一人一人に向き合い支援するのは非常に大事だが、『器』の確保のため、政治へのアプローチも大切」という意見に繋がっていきました。

(3)終わりに

ここまで読んで頂きありがとうございます。いかがでしたでしょうか。新しい知見を得られましたか。もしくは既に知っていることも多かったという方もいるかもしれません。

「愛」という言葉は飽きるほど使われますが、この言葉を言い換えると、「対象に対して、思わず身体が向いてしまうような関心を向け続けること」だと私は考えます。

関心を向け続けるには、多くの知識だけでは足りなくて、言い古されたことやよく知られたことでも繰り返し語って、相手から反応が来ることを確認して「何かに対して意見を持つ自分」へ安心と信頼を感じていくことが大切だと思います。

そのために、社会や政治も含めた幅広いテーマで、今後も対話を続けていきます。

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