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【短編小説集vol,7】鎌倉千一夜〜白粉花のしおり

第33夜 逍遥代行

 両親亡き後、家に残り暮らしている。叔母からもらっていた縁談を昨夜断り、芙美子は今リードを手にして宇都宮辻子を歩いている。この大型犬は散歩の代行で預かったもの。動物好きが高じて農獣医学部に入り、卒業してから段葛の動物病院に勤めたが、先月院長の高齢を理由に長年の使命を終え病院が閉じられた。この病院を引き継ぐか打診されたが、芙美子には維持費が重すぎるため辞退し、病院跡地はマンションが計画されることになった。
 15年働いてきた実績は十分なので、芙美子にはもう少し小さな形での開業の道もあるが今は心の整理をしたく、近所の犬たちの散歩代行にとどまっていた。ネットでの案内だけではあったが、それでもコロナ禍が明けてからは毎日数件の注文があり、食い繋ぐことができている。それも両親が家を残してくれたからだ。浄明寺の家は竹林に隣接した50坪ほどの普通の一軒家。小さな庭で母が菜園をやっていたのでそれを継続させ、春には隣から伸びてくる筍をいただいている。
 贅沢を望まなければこの生活はとても平和だ。咳の止まらない老いた老犬や、体毛が抜けて寒々しい子犬たちなどを治療してあげるのはとてもやりがいがあったが、発病の原因が大半は飼育環境にあることを知っているだけに胸が痛んでいた。飼い主の怠惰、無知、養育財力。そんなことに対して医者から指摘はしづらい。だが明らかに負担はこうして犬たちにのしかかるのだ。
 芙美子の散歩は一匹あたり1時間、ほかの代行業者に比べたら時間的にはより十分に行うようにしている。老犬は冬なら快適な陽だまり、夏なら早朝に木陰で一緒に過ごすことに時間をかけ、元気な犬には材木座海岸の砂浜を歩かせた。砂浜は足の指が砂を掴む動きが繰り返されることで、丈夫になるのだ。いつしか代行を依頼する客も、単に不在のためだけでなく、健康管理のために定期的にお願いするようになっていた。
 芙美子が鎌倉市内を歩く際、犬に出会うと犬から挨拶しに近づいてくることが増えた。もちろんその犬は飼い主を通して出会ったわけだが、当の飼い主とはネット上の接触だけで、対面することもなく庭先の犬小屋から犬だけを連れ出し、散歩後にまた戻すケースも多い。そんなことで犬だけが芙美子に懐く状況に始めは飼い主が首を傾げるのだが、こちらから自己紹介すると納得してくれる。いつしか鎌倉では ”犬のおばさん” と呼ばれるようになった。嬉しくなくはないが複雑な気分ではある。私のアイデンティティは何? 40に近づき、伴侶はいない。
 ある早春の朝、庭の畑を耕しほうれん草の種を筋蒔きしていたら、しゃがむ私の背中のシャツがめくれあがって少し出ている肌に何か感触を感じた。固まった腰をゆっくり伸ばし後ろを振り返ると、小さな雑種の和犬がリードも首輪もなく座っている。さすがに犬のおばさんでもまだこの子は知らない。
「あれ?きみはどこから来たの?」
子犬はその声の響きに首をかしげている。
「そらそうよね、わかるはずはないものね。おうちに帰らないとお腹すいちゃうよ」
子犬はそれがご飯に関する内容だとわかったはずはないが舌をぺろぺろさせている。
「あれ?お腹すいてるのね」
そう言って、芙美子は畑作業の合間に食べようと縁側にラップをかけておいたふかし芋を少し折って皮をむいて子犬に差し出した。子犬はにおいをかいでから少しずつ芙美子が手にした芋の端から小さくかじっていく。
「空腹だったんだ。たくさんお食べ。それにしてもどこの子なんだろう? まだ生まれて数日しかたってない感じなのに」
子犬は無心に芋をかじっている。
「飼い主が迎えに来るまで私と一緒にいようね」
芙美子は縁側に座布団をもってきて子犬を乗せた。子犬は空腹が落ち着き、しばらくもぞもぞ横転を繰り返してから吐息を立てながら寝た。
 その日、この犬を探しに来る気配はなかった。翌日もその翌日も…、そして電柱にお尋ねの貼り紙もされることなく一週間が過ぎた。子犬はすっかり芙美子に慣れ、芙美子も情が移り手放したくない感情が強くなっていた。
「私から貼り紙すべきなのかしら? でもこの子がいなくなるのは寂しい…」
突然姿を現す様子が似てるということで、子犬に ”たけのこ” と名付けた。たけのこは豆しばの系統なのか体もそのまま大きくはならず、畑を駆け回ったら大好きな縁側の座布団で寝る毎日、いつの間にかひと月が経っていった。
 芙美子が風邪で寝込んでしまった。散歩代行はお断りせざるを得なかったが、たけのこの食事と排泄は代行がきかない。たけのこは布団から動かない芙美子の枕の脇にずっと伏せしている。
「たけのこ、お腹すいたよね。ごめんね、今立ち上がることができないの。ごめんね…」
 陽は昇っているのにカーテンは開けられることなく、暗い部屋でたけのこはその意味を探るようなしぐさで首をかしげている。芙美子は目も開けていられず、いつしか眠りに引きずり込まれた。
 たけのこは大佛邸脇の砂利の匂いが気になるらしく、ずっとくんくんしている。私は心ゆくまで嗅がせる。匂いは犬にとっての娯楽みたいなものだから。家にいる間は同じ状況に退屈して伏せしている時間が長いだけに、散歩はとても楽しみなイベントなのだ。たけのこは清川病院の手前から小町大路に向かう。気温が上がってきたから木々や家屋の作る日陰が居心地がいいようで、座り込んだりする。気が済むとまた歩き出して次は東勝寺橋で一休み。1時間程歩いて浄明寺の家に戻った。
 何気ない夢だった。が、日常のルーティンをこなした安心感を感じる夢だった。まだ布団から出る気力がないので寝入る前にたけのこがいた枕元を見ると、変わらずそこに居て、ぐっすり寝ている。
「なんだかたけのこに散歩に連れ出されたみたい」
 芙美子の熱は午後には落ち着いてきた。
「たけのこ、ありがとう。明日はお散歩行けるよ」
たけのこは尻尾をぶるんと振ってまた寝た。

第34夜 道元の階段

「お父さん、あの階段何か字が彫ってあるよ」
父が大船に行くついでに学校の近くで降ろしてもらうことにして車に乗ったが、八幡宮脇から美術館に差し掛かるところで珍しく渋滞が発生していた。遅刻が気になり始めた清隆は助手席の窓ガラスに額をつけて不機嫌にしていたが、道元禅師顕彰碑のところで声を上げた。
「お、気づいたか! 父さんも散歩してるときに見つけたんだが、あの階段は16段あってな、一段ずつ人生への戒めが彫ってあるんだ」
  ”只管打坐”。道元の教えが彫られた巨大な石碑に向かって16の戒めが1段ごとに刻まれている。
「普通に昇るだけだと絶対に気が付かないよね。あんな左下のしかも垂直のほうににさりげなく彫るなんて、なんだかすごいね」
「しかもな、あれはこれ見よがしにどうだ!なんて風じゃなくて、どこにも解説されてないんだ。”その階段を昇るが良い。おぬしの迷いは一段づつ消えていくぞ。そのためには只々座れ。邪念を払え。身体を忘れろ。カラになったその時、ようやくそこに辿り着く。だがそこは終点ではない…” みたいな無言のすごみがあるな」
「ふーん」
 清隆は建長寺の敷地に建つ中高一貫の学校にこの春から通い始めている。もちろん坐禅などもカリキュラムに入っているが興味はない。むしろ辛い時間だ。それを除けば学校は楽しい。読書好きなので読書部に入った。皆集まって黙って読書をするのではなく、面白かった本を紹介し合うのだ。先輩たちは広いジャンルを読んでいてすごい。藤原先輩が鎌倉にまつわる本をたくさん読んでいると聞いたので、今朝の階段の文字のことを話したらちゃんと知っていて、図書館にある一冊を勧めてくれた。清隆は早速図書館でその本を開いた。

「十六条戒ってのがあって、それは

三帰戒(さんきかい)
・帰依仏 (素直になる)
・帰依法 (決まりを守る)
・帰依僧 (仲良く生活する)

三聚浄戒(さんじゅじょうかい)
・摂律儀戒(しょうりつぎかい) (善いことだけをする)
・摂善法戒(しょうぜんぽうかい)(善行に励む)
・摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)(世に利益する)

十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)
・不殺生戒(ふせっしょうかい)(命を大切にする)
・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)(盗まない)
・不貪婬戒(ふとんいんかい)(不倫をしない)
・不妄語戒(ふもうごかい)(誤解を受けることを言わない)
・不酤酒戒(ふこしゅかい)(酔って生業を忘れない)
・不説過戒(ふせっかかい)(責めない)
・不自讚毀他戒(ふじさんきたかい)(中傷しない)
・不慳法財戒(ふけんほうざいかい)(善いものは分け合う)
・不瞋恚戒(ふしんにかい)(怒らない)
・不謗三宝戒(ふほうさんぼうかい)(素直になり、決まりを守り、仲良く生活することを軽んじない)

からなっているのかぁ」
漢字は並ぶがその意味は中学1年の清隆にもよくわかった。それ以来、車で送ってもらった日以外は北鎌倉駅から歩いて登校するのが楽なルートだが、清隆は材木座の自宅からあの階段の前を通っていくことにした。毎日それらの文字に接するうちにそれらの文字が頭に入り、空で言えるようになった。父も驚いていた。座禅の時間も線香が消えるまで座っている間、これらの文字を唱え続けているとあっという間だった。じゃあと、般若心経をはじめとする短いお経をひとつずつ覚え、座禅時間はどんどん日常茶飯になっていきやがて高校へ進んだ。
 高校の読書部では藤原先輩はさらにパワーアップしており、鎌倉博士を卒業し仏教博士になっていた。空で般若心経などを唱える清隆を見込んで禅問答をしてきた。
「清隆、仏とは何ぞ?」
清隆は本で読んで知っていた。
「三斤の麻」
藤原先輩は満足そうな表情で、
「いいねえ、その調子その調子」
といいながら、その後も会うたびに問答を仕掛けてきてそれなりに答えていた。
 藤原先輩は京都の大学に進学が決まり読書部卒業祝いの会で最後の公案を投げてきた。
「悟りとは何ぞ?」
これは簡単ではない。清隆は即答できないまま藤原先輩を送り出すことになってしまった。 
 1年が過ぎ清隆は東京の私立大学の理学部物理学科に進んだ。量子力学の勉強をするにつれ、日課の座禅で唱える般若心経に接点を感じていき、調べると確かにそういったことについて書いた本は沢山あった。
「お釈迦様が量子を知っていたはずはないけど、この世の根源を突き詰めていくとマトリョーシカみたいにどんどん小さなものに考えが行って、結局目に見ることのできないものに行きついたんだろうな…。まてよ、それを大昔に気づいたことを”悟った”と呼んだんじゃないか? 所詮人間なんて粒子の寄り集まったもので成り立っていて、100年くらいしか存在しないんだから十六条戒を実践して有意義に過ごしましょうよ、ってことになるよね」
清隆は藤原先輩の公案への答えが見つかった気がしたが、
「まてよ、じゃあ素粒子が解明された今、全員が悟りの境地に達したってこと? いや、そんなわけがないよね。じゃあ、まだ解明されていないあれのこと?」
清隆は毎日の座禅で”あれ”について考え続け、大学2年の夏、読書部OB会であの公案以来久しぶりに藤原先輩に会うことができた。
「藤原先輩、3年考え続けて答えが出ました」
「そうかひたすら只管打坐したのか! よし、答えてみろ」
清隆は気負いなくこう答えた。
「超次元」
藤原先輩は大きくうなずいた。
「いかにも。ただし私ならこう表現する。”メタバース”と」
清隆は新たな座禅時間を感じ小躍りした。

第35夜 白粉花のしおり

男 君が嫌じゃなければ想い続けてもいい?
女 何故スマホでそんな曖昧な表現で伝えてくるの? 何故さっき顔を合わせているときに直接言ってくれなかったの?
男 それは…
女 ネット検索するみたいに私の気持ちを探るのはやめて! 

 面川千里はリーディンググラスを外し、眉間を柔らかくほぐす。40年親しんできた台本の文字が、このところ霞んで長くは向き合えなくなってきた。先週届いた台本は昭和の純文学作家による未完の悲恋作品を現代人気作家が加筆リメイクした話題作。時化の日には漁に出れずに愛人である女の家にやって来る漁師との物話を、現代のITエンジニアに置き換え、電力やwifi網のデジタルインフラの障害を待つ設定になった。愛人役を任されはしたが、面川は気乗りはしていない。昭和の巨匠は愛人に雨乞いをさせたが、まさかインフラテロでもさせるのか? 台本の先を追ったら、案の定インフラ障害を計画する話になっていた。
 昭和の恋は美しかった。通信は乏しく、ひたすら待ち焦がれるものだった。高揚、焦燥、嫉妬、絶望…、あらゆる感情が付き纏い続ける。それがどうだ、今はあまりに物事がスピーディーに進むため、思い悩む前に白黒がはっきりついてしまう。次に会うまでの間に相手の存在が心の端っこまで充満していく枯渇感など微塵もなく、衝動のままデバイスで表情を確認することができてしまう。
 面川は化石化しかねない悲恋の物語を忘れまいと、自身の代表作とも言える30代半ばで演じた作品の台本をもう一度読んでみることにした。紅茶を淹れ、オークのソファサイドテーブルの上に置くと、台本を両手のひらに乗せ表紙をしっかり見直す。ストーリーより先に、当時随一の厳格な撮影現場と言われた坂田組との日々が蘇る。早朝から深夜までのロケがひと月半続いた。私は何度か倒れ、その度に速攻の体力増強手段としてもてはやされていたニンニク注射を打って凌ぎ続けた。それでも恋人役の草薙正雄とは誰にも気づかれないように逢瀬を重ねた。関係者は見ないふりをしてくれていたことをのちに知ったのだが。あの頃は怖いものなどなく、所属事務所に相談もなく髪を切り、普段着は露出の多いものを選んだ。人気役者やアーチストは何をしたってファンはついてきてくれるのでイメージチェンジは怖くない。しかし仕事が減り自信がなくなってくると変化することが怖くなる。あのときの私を好いてくれてたんじゃないかと思うのだ。
 台本は読み返されて元の倍くらいの厚さになっている。面川は読むでもなくぱらぱらページをめくると、あるところで手が止まった。そこには押し花が挟んであった。白粉花の真っ赤な花だ。面川はすぐにわかった。草薙との初めてのキスシーンだ。首都高速横浜羽田線で空港脇にさしかかったところで渋滞に遭い、会話が途切れたところで助手席の背もたれに草薙の左腕がかけられ…。こういったシーンに不慣れな私は滑走路に連なった青いライトのことだけを見て草薙に全てを委ねた。
 小さいころおままごとをしてる時、近所のひろしくんに可愛いねと言われたことで面川は人生が決まったと思っている。可愛くいたいと母の鏡台に座ることが増え、そこに並んでいる化粧品に憧れた。せめてもと、使うわけでもないが白粉花を見つけると白粉みたいな粉が入っている種を集めた。やがてお化粧をする歳になりファンデーションや口紅やマスカラなどを欲しいままに集めていった。でも道端にあの赤い花を見つけると、つい種をつまんでしまう。
 しおりとして挟んだこの白粉花は忘れもしない、いよいよ首都高速へ向かうシーンで車に乗り込む前、街路樹の下に咲いていたもの。緊張する面川にひろしくんの言葉を思い出させてくれるように咲いていた。あの時の嬉しさをこのシーンに込めたい。面川はずっと花を掌で包みながら助手席であの日のおままごとを思い返していた。今、台本のセリフは役者の面川が何一つ間違うことなく喋っている。しかし、素の自分の意識は過去へ向かって行きどうにもならない。“ひろしくんは始めはお父さん役として真似事をしていたけど、いつのまにか無口になり、しばらくして…"  いよいよ車は滑走路脇でスピードを落としクライマックスのタイミングがやってきた。草薙の左手がハンドルから離された。面川は車のエンジン音以上に自分の心臓の鼓動が聞こえてしまっているのではないかと一層体に力が入る。そんな緊張を察してか草薙が顔を寄せながら小さな声でアドリブを囁いた。「可愛いよ」あまりのシンクロに体の全ての力が抜け、車内を包む青いライトにシルエットが重なった。

女 スマホなんてなかった小さい頃、あなたはどんなことを夢に描いていたの? 毎晩お布団に入ると明日を思ってわくわくしてたようなこと。
男 どうして?
女 だってそういうのって何の道具もいらずに、幸せな気分になれることでしょ?
男 僕は自由自在に世界の人たちと友だちになれることだったよ。
女 素敵な夢ね。しかもちゃんと叶ってる。

面川は新しい台本はこのページに白粉花を置いた。明日髪を切ろうと思った。

第36夜 宅急便の新聞

 「新米を送ったから明日着くと思うてぇ。今年の米は暑い日が多かったから出来が悪くて粒が小さいから美味しくないと思うっけねぇ、水はいつもより多めにしとけって」
母からの新米の報告は毎年「美味しくない」のだ。豊作の年はでも「天日干しじゃないから」美味しくない。そんな”美味しくない”一級品コシヒカリは、毎年孫の誕生祝金のボチ袋や、岩塚製菓や亀田製菓で母がこれぞと思った新製品せんべいとともに段ボールに詰められ宅急便で届く。今回はボチ袋が側面にセロテープ止めされてあり、危うく気が付かずに畳んで捨てるところだった。昔は秋の栗や松茸も入っていたが腰を悪くしてからは山に入れず、その部分のすき間には新聞屋からもらったタオルや新潟日報の古新聞が詰められている。古新聞は犬の散歩時の**処理に重宝するので歓迎だ(新聞社には申し訳ない気がするが…)。
 今回は新潟日報が詰められていた。いつもはそのまま散歩バッグに詰め込むところ、先月末の日付のを何気なく読み始めたら社会面に見覚えのある名前が目に入ってきた。確か彼は地元の国立大学に進んだ後、東京の最高学府で建築学を終えたと聞こえてきていたが、ここでは木構造の権威として記事を寄せていた。内容はこうだ。
「近年最大級の地震の際、大きなダメージを免れた住宅は決して鉄骨構造のものだけではなく、木構造の古いものでも雨仕舞いがしっかりしていて、ある程度太い材を使用していたものは残った。木が耐えたのだ。木は使い方で鉄やコンクリートに負けない強度を発揮する。特に湿度の高い日本では、湿った空気に木は締まり、乾燥すると膨らむ。鉄やコンクリートではこうはいかず場合によっては亀裂に繋がる。世界には木での高層ビルディングが増えており、この度日本でも東京大手町に20階のオフィスビルを建てる運びになった」
 彼とは高校時代、文系理系が分かれていない1年の時にクラスが同じだった。エリア内のたくさんの中学から目指した者がこの高校に来たので入学時は面識がなかったが同類は惹かれ合うもので、英語の授業で詩の翻訳を順に発表した時、ホイットマンの
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I celebrate myself, and sing myself,
And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.
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という詩を、
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私は自分を讃え、そして有頂天になる。
君にだってその気持ちは分かるだろう?
だって原子で成るこの世は皆一緒なんだから
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と訳した。
私は立ち上がって彼に握手しに行きたくなる気持ちを一所懸命押さえ、休み時間に駆け寄った。
「博くん、あの詩の気持ち僕にもよくわかったよ。でもあんな風な言葉では訳せなかった」
「あの詩は好きで何度も触れてたからだよ。それより、僕は最初はちんぷんかんぷんだったけど、君はすぐにあの詩の意図が分かったの? そっちの方がすごいよ」
「僕は鉄腕アトムが好きで、アトムって何だろ?って思ってから原子のことを本で調べてたんだ?まさか英語の授業に出てくるとはね」
 私たちは2年生からはクラスは分かれていたが、廊下などで顔を合わすたびにそのとき夢中になっていることを交換し合っていた。3年の夏、博くんは受験勉強の間を縫って白川郷に行って来たと言っていた。合掌作りについて熱く語っていた。後、卒業式以来会っていない。  
 博くんの寄せた記事ではこう締め括ってあった。
「木、すなわちセルロースの分子構造は圧倒的に柔軟性があるんです。原子は皆一緒なのに分子で固有の特徴を持つのは、例えば木には生物の側面と材木の側面があることが起因します。鉄やコンクリートと違い、木は生きていたころの水が通っていた記憶が残っているんです。人間という生き物みたいに。私は高校時代、友人の影響で分子に目覚めました。こうして建築学に留まらない発想を持てるのは彼のおかげです…」

第37夜 ローソク足の人生

 このローソク足の株価チャートの動きは確かに連動している。私のバイオリズムと一致しているのだ。この会社は何だ? 聞いたことがない。先も同じ動きをするなら売買は容易だ。大金持ちになれるではないか。それにしてもこの会社は何だ? 調べるとバイオテクノロジーだ。世界各地にバイオの技術供与をしているらしいが、この業界にいない私にはBtoBビジネスの会社は知りようがなかった。私を使って何かを試しているのか? では何故私? 私が使っているバイオリズムは自分の生まれた日時に加え、両親の生まれた日時も加味されてまわっているものだから、同じパターンの人が存在するのはかなり低い確率になる。私が対象なのは間違いないだろう。
 なんだか気持ちのいいものではなかったが、どうせならと売り買いを重ねてみたことで資産は思うままに増やすことができた。やがてある思いが湧いてきた。こんなにも私の個人データを把握していて、みごとに同調させられる術を知っている存在なんて、そうはいないはず。ひょっとして私はこの会社に生み出されたアンドロイドで、すべて操作されながら生かされているのではないか? 身体、感情、知性。私が知るバイオリズムはその3つの状態がそれぞれ独自の長さの波のような周期で繰り返すのだが、これがじつは3つだけでなくもっと細分化されたもので構成されているとしたら…、たとえば運、勝敗、オーラ、etc.非科学的なこともこうして数値化されているとしたら。自分はさしずめゲームのキャラのようにプレーヤーに楽しみながら操られている? だとしたらこんな風に想像していることもプレーヤーの操作によるもので、プレーをストップさせるためにこの会社を破壊するような行動は全く無駄だということになる。
 ある日この会社の株価が突然乱高下した。急ぎバイオリズムを調べると、確かに同調している。バイオリズム曲線は心電図の値ではないのでそのまま生命の危機ではないだろうが、動揺しないではいられない。動揺で脂汗をかいたりしたことで身体、感情の曲線が最小値に向かっていく、それを見てさらに動揺が高まり冷静さを欠くことで知性も下降を始めた。3つの線はもはや周期特有の曲線ではなく、直線のまま3本はやがて重なり一本の線となり下降し続けた。株価はあっさりこれまでの蓄えまで吐き出すほど下落し続け、買いから入った分がすべて負債として積み上がっていった。それでも下降し、前場はストップ安で終わった。資産回復へはもはや手立てはない。数億の負債を背負うことになった。
 万事休す。覚悟を決め深呼吸をする。そもそもチャートが下降しきったことでバイオリズムもマイナス状態から浮上しない、イコール=死のはずだがこうして生きている。所詮バイオリズムなんてものは医療に利用されるような科学的データではない。きっとこれまでの同調はすべて何かの偶然だったのだ。頭に上っていた血液がまた元のように穏やかに全身に巡り出す。すると目の前のトレード画面が忙しく動き出した。チャートはまさにV字を描きながら株価が上がり始めた。まさにプレーヤーがゲームをリセットしたかのような動きだ。さっきまで周期を逸していたバイオリズム曲線もローソク足チャートに同調している。これは明らかに何かの力が働いている。私は無駄な抵抗は止め、株価の上昇に任せ損失がなくなった時点で株の売買から手を引いた。それを見届けるように、この会社の上場は消滅した。まさにゲームオーバーしたかのように画面がブラックアウトすると、一連の疲労感からか、私は眠りに落ちた。

第38夜 新たな台本

時は残酷ね
いつしかヒロインの友だち役
次は同じ職場の同僚
最近は遺影よ、遺影
私ちゃんと生きてるのに

あの頃の私は輝いてた
恥じらっても
わがまましても
気まぐれでも
膨れっ面すら可愛いって言われた

現場は私のリビングだった
いろんな人が来てくれて
出番の合間はインタビューや番宣収録
みんなが私を求めてた
みんなが私のこと見てた

それなのに人は勝手よ
昔は良かった
最近は演技がくどいだなんて
好き勝手言ってくれちゃって
余計なお世話よ

あの頃のイメージを手放せなくて
髪型は変えることができないの
これが私なんだもの
みんなこの私が好きなんだもの…

初心忘るべからず
昨日読んだ先達の花伝書にそうあった
どんな世代にも忘れちゃいけない
初心があるんだって

そうよ私は演じる人生を選んだんだもの
決して見られるためなんかじゃない
こんな私でも誰かの心を温められるわ
絶望の穴ぐらに
こっちこっちって
ちっちゃいけど光を届けられるかもしれないわ

髪を切ることもためらってきたけど
今こそが綺麗なの
だってこんなにも人に優しくできるんだもの
私、髪を切ります
私はこの役から生まれ変わります

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