懲りずにまたマッチングアプリ始めるヤツ(Omiai編)
彼女や結婚相手が欲しいというよりも、単純に人間のつながりが欲しい自分としては、最適なアプリを見つけるのは難しい。
Meetupのようなイベントで集まるような人間関係もある。だが、あまり気が進まない。イベントに参加したいというよりも、何か普通に話したり、普通に遊びにいく友人をこの年齢になると作るのは難しい。
何か「夕飯を一緒に食べる」とか、「一緒に映画を見に行く」とか、普通にデートするみたいな用事がない限り、新しい人間関係を作れないような気がする。
学生の頃のようにただ普通に何の用事もないのに一緒に帰って、帰り道に友達の家にたむろしたり、どっか寄り道して芝生の公園で相撲したりするような人生はもう自分には戻ってこない。
そんなことをしようとしても、時間の無駄だとか、何も楽しくないとかいう人が多い。ただ一緒に話すみたいな時間を生むより、何か共同で体験するという方を優先する。
まずマッチングアプリを始める時、画面に現れる美女がフェイクかどうかを見極めなければならない。まずその人が本当に実在する人物なのかという作業に時間を費やす。その時間が結局は大半を占める。
そこからメッセージのやり取りにもっていけるかどうかは、運の要素というか、私にはもう何もすることは出来ない。私の見た目やステータスですべてが決まってしまう。
面白いプロフィールを書く文章力があったとしても、相手が面白さを求めていなければ何も無いだろうし、そもそも活字を読む気力を持ち合わせてなければ徒労に終わる。
私が30代なのに48歳くらいの年上からメッセージが来ても現実的じゃないだろうし、子供が欲しいなら目的に沿った人を見つけるしかない。
そういう機械的な考え方をもって人と繋がろうとすると、人間にしっかり向き合えてない気がする。自分の目的に意識が向いていて、自分の目的に相手を利用することばかりが優先される。
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」によれば、人を愛するには技術が求められる。それなのに人間は簡単に人を愛することができると勘違いしているし、どうにかして好かれようとする方に労力を割く。
その不毛な作業がまさにマッチングアプリと言えるかもしれない。どうにかして野生動物が交尾まで持っていけるか、自分の男らしさや女らしさをアピールして魅力的に相手に映るかに集中している。
別に悪いことじゃないだろうが、結局それでは機械的であって、人間的じゃない気がする。簡単に言えば愛がないということになる。
私のつまらない人生経験から導き出した回答としては、他人の幸せを願うというのが愛情の根源になっている気がする。自分の気を引くために、相手に何かをするというのはいかにもビジネス的で、いわゆる無償の愛とは異なる。
無償の愛というのは、母親が子供に与えるものであって、夫婦関係だとやはり異なるかもしれない。夫婦とはいえ所詮他人みたいな冷めたことを言う人も多い。
確かに間違っていないだろうし、そういう現実的な側面があるのも理解できる。だが、それで結婚して本当に楽しいんだろうかとも思う。
昔はお見合いという制度が主流だった。それで信頼関係を結べる人もいれば、そうじゃない夫婦もあったと思う。だからこそ、今の時代は自由だろうし、結婚をしていなくてもそんなにヤバい奴とまで思われない。
ゼクシィのCMじゃないが、そんな時代だからこそ誰かと結婚したいと思うのは、相当な強い意志が必要になる。苦楽をともにする覚悟というか、子供が生まれたら途中で逃げ出すことも出来ない。
自分の人生を捨てる覚悟も必要だろうし、それが何十年続くかもわからない。
出会い方は私は何でもいいと思っている。街角の交差点でぶつかっても、職場の先輩後輩でも、マッチングアプリでも出会ってからのあとの方が重要になる気がする。
マッチングアプリを見ていると、いまだ会ったことがない人間と会えるワクワクと面白くない作業をしている感覚が混在している。宝くじを買う時の感覚に似ているだろうか。
大体の人はテンプレの文章を書いている。職業を書いて、趣味を書いて、結婚して子供が欲しいとか、涼宮ハルヒのように「恋愛に本気じゃない人間はいりません!」と言わんばかりに、自分が主導権を握ろうとしている感もある。
宝くじも似たようなことを書いていて、確率が高いほど安く、低いほど賞金が高い。それらをいくつか選別して購入する。試しに買ってみて、当たるかどうか確かめる。
そして当たったからといって、幸せが確約されているわけでもない。なんだか、とんでもない幸せが待っているように思える。だが、実際に体験したことがないものを予想するというのは難しい。
宝くじを選別するように、私も誰かに選別されている。それが連続して、結局、合理的な判断ができる人は確率論的に買わなくなっていく。
会社外のマッチングアプリでも豚や牛のように選別されて評価される人生が続くのだろうかと考えると、自由がない。どこに言っても誰と結ばれても、本当に信頼関係を結べるんだろうかと考えてしまう。
私の性格上、女性が怖いとかいうタイプの人間ではないと思う。ただ、女性慣れしていないというような、いわゆるドラマのような恋愛やデートを理想としている人にとって、私は夢を与えられない、何の価値もない人間だと思う。
現実的というか、男女平等で男友達と接するように女性にも接すると思う。そうなると、いくら男女平等を謳っている人でも、大概の女性は無理だろうし、面白くないと思う。相手が自分といっしょにいて面白くないなら、私も無理に一緒にいたいとも思わないし、孤独になると思う。
「一緒にいて気が合う友達」を見つけるのはかなり難しい。大人になると本当にそう思う。でも、そこまでを求めていない。普通に上っ面の会話でも何でも、今は普通に話し相手がいるというだけで嬉しい気がする。
Mr.&Mrs.スミスのような、すごい信頼関係を夫婦で構築するのはマッチングアプリでは無理だろうし、売れてないお笑い芸人を下積みからずっと支えてきたとか、そういう苦楽をともにしなければ何も生まれないと思う。
今の人達は楽しみよりも、リスク回避と優先する。失敗しないようにする。だが、結局その選択が失敗であることに気付けない。
友達を無理に作ろうとするより、ヤバい奴をなるべく排除したがる。変なことに巻き込まれるなら、一人でいるほうがいい。そうなると、そもそも一人でいて楽しいし、無理に人と一緒にいる必要がないという判断になる。
私もどちらかというとそれに近い。でも一人でいる時の楽しさと、誰かと一緒にいる時の楽しさは全く別物で、全く価値が異なるものという認識はもっている。
最近、なんで人間は結婚して子供を育てるんだろうなと思い始めた。その理由はいろいろあるんだろうが、一つに「もう一度、人生をやり直す」ということがあるかもしれない。
やり直すというと大げさだが、思い出すという感じが近いだろうか。
大人が大人同士で昼間からカブトムシを取りに行ってたら近所の人は心配するかもしれない。だが、子どもと一緒であれば、安心する。子どもと人生をともにすることで、大人ももう一度人生をやり直せる。
だが、実際は時代が違うので、自分の子供時代を完全に思い出すことは出来ない。私が子供の頃に食べたダイエーの地下のだこ焼きを私はもう二度と食べることは出来ない。
父親もいないし、ダイエーもたこ焼きももう存在しない。それでも、何か感覚的なもので、たこ焼きを食べるとその頃を思い出すことがある。きっと自分の子どもと食べたら、勝手に父親はこんな気持だったんだろうと経験することになる。
マッチングアプリの自己紹介欄はほとんど業者のテンプレか、作為的な工作がされた文章のように見える。人に見られることを前提に書いている文章なんかどれもそうかもしれない。
自分の文章も人に見られることを前提としているので、自分の気持が100%出ているとは言えない。でも限りなく自分の感情が勝手に手に乗り移って、キーボードを叩いている感覚に近い。
なるべく大衆に混じろうとする考えが強い日本人としては、個性を出すということに長けていない。どれも同じように見える。
逆に言えば、ヤバい行動をする奴が少ないとも言えるし、現実と切り離されたネット上でヤバさを解放する人もいる。
マッチングアプリをするたびに、その人の個性を見ようとすると、その人の面白くない点ばかりに目が行ってしまう。普通の人間なんか私はこの世にいないと思う。兄弟じゃない限り別々の親から生まれているわけだし、兄弟であっても性格が違う。
結局、私はあんまり他人を信用していないというか、おそらくかなり下に見ている。下見ているというか、何も面白くない状況が続いて諦めてしまっている。
今までの人生がずっと面白くなければ、きっと来年も再来年も面白くないと思う。希望を持ち続けるというのは、かなりメンタルをえぐられる。
別にマッチングアプリじゃなくても、東京なんかいたるところに人がいる。これだけ人がいるのに、自分と関わりのある人間が全くいないというのも不思議なものである。
田舎は全く人がいないのに、人同士のつながりが強い。東京のように人がいすぎると、繋がりがなくなる。
彼女が欲しいとかいうより、日常のこの虚無感を打破したいというのが自分の一番の願いだと思う。仕事が楽しくなればそれでいいし、なんか面白い友達や趣味ができればそれでもいい。
だが、私の脳内で思いつくアイデアでは今の生活が限界なので、誰かに助けを求めている。マッチングアプリみたいな効率とコスパの悪いものに時間を消費すれば、私の人生はもっと面白くないことになるのは薄々わかっている。
こういう手軽にできるだけの確率の低いものにすがるのも、宝くじを買うような、あまり合理的な判断ができない人間がするような行動であることもわかっている。
じゃあ何をしたらいいというのも、自分のなかでは生まれてこない。ただ、仕事へ行って、冷凍食品を買って帰って食って寝る。その生活を繰り返して、来年、再来年がなんか楽しくなるんだろうか。
自分が何のために生きているのかは、もう自分では決められないということなのか、他人に答えを求めているということかもしれない。
キッカケは別になんでもいいから、何かがヒントが欲しい。そのために出会う人ならなんでもいいし、くだらん宗教やマルチに勧誘してくる人間に会うためにマッチングアプリをしているわけでもない。
どこにそういう人が私の人生の中に隠れているんだろうか。私の見ている現実が、私の網膜から脳内で作られた映像だとするならば、私の脳内でもう楽しい人生を創り上げることはできないんだろうか。
夏休みが終わる時期に、子供の頃を思い出していた。今の自分の人生とは別の人間の人生を歩んでいたのかと思うくらい、あの時はワクワクしていた。
大人になって人生を楽しむことを諦めていいんだろうかとも思う。なんで私の望んでいない人生を私の脳は勝手に生成したんだろうか。
こんな気持ち悪い話を聞いてくれるような彼女が出来たら最高だと思う一方で、きっと付き合っても二人共堕落していくだろうなと予想できるのも怖い。
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