「あなたは何がやりたいの?」という究極の質問

転職などのとき、「何がやりたいんだろう?」と悩むことがある。また、転職の面接でも「あなたは何がやりたいんですか?」と聞かれたことがある。この質問をされると、私はドキッとする。なぜなら、面接で受けている会社の仕事なんか絶対に自分がやりたくない仕事なので、テキトーに誤魔化すのも嫌になる。

何年か前の採用面接で、私のクソみたいな経歴が書いてある履歴書を見て鼻で笑った面接官が、「あなたは何がしたいんですか?」とバカにしたように言ってきた事がある。

確かに私はムカついたし、相手の面接官の態度としても社会人として良くはなかったが、しかしながら、ふと「確かに」と納得してしまった。どう考えてもこれまでの私の経歴とは関係がない事務職だったし、「未経験ですが、この仕事のためにこれだけ努力してきました!」みたいな気概も持ち合わせていない。

こんな仕事嫌だけど、食って行くには仕方ないし、この職場の人だって全員がワクワクして夢に向かって働いているわけじゃないだろうと、言い訳をしていた。

私にはそのとき、絶対にやりたいことが何か自分ではわからないまま、片っ端から履歴書が通った企業に面接を受けていたし、それで結果的にめちゃくちゃ落ちていた。

高校まで理系で医療系や生物系のような方向へ行きたいと考えていた自分が、受験の関係で結果的に大学で文系になり、経済と出会って没頭はしたものの、経済学者になるわけでもなく、トレーダーになるわけでもなく、なりたくもないサラリーマンになろうとして、なりたくもないことの就活に時間と莫大な金を費やして、拒否られて何してんのか自分でもわからなくなっていた。

夢がなく、自分が何をやりたいのかわからない。という人は意外といる。夢というほどではなくても、なんとなくやりたい仕事が見つかる人もいる。どちらにせよ、自分の望んでいる方向へ行ける人生というのは、幸せなことかもしれない。

自分がやりたいことがわからないならまだしも、多分もうできないだろうな。という確信をもってしまった人生を生きていくのは相当しんどい。

今の時代というのは、頑張ればそれなりにいろいろできる時代ではある。ましてや日本に生まれた時点で相当なアドバンテージをもっているわけだから、何でもかんでも好きなだけやったればええやん。という感じでもある。

それなのに、なぜかそういうことが社会では許されていない感がある。仕事を数年間休んで、世界旅行してもいいと思う。だが、日本でそれをやったら、おそらくそれから仕事に就くことはできなくなるので、何か別の選択肢を探さなければいけない。

エンジニアで世界中旅をしながら働けるという人もいる。羨ましいとは思うが、実際は思っているほど楽しくないかもしれないし、時差もある中で働くのは厳しい部分もある。

完全自由で、旅人が仕事みたいな感じでYouTuberとかなら、なんだか楽しそうではある。それでも賞味期限があるかもしれない。

楽しいことだけやっていたいというのは甘えに聞こえる。だが、本来人間はそれを理想として、皆が必死に頑張ってきたんじゃないだろうか。

旧石器時代のようなときから人間はいろいろ勉強して、医療にしろ物理学にしろ、最近ではもう誰でも宇宙に手が届くような未来が来ようとしている。逆にまた戦争が起こりそうな感じもあるし、自分達は果たしてどのように生きるべきか迷いもある。

毎朝、満員電車があるということは、毎朝仕事や学校へ行っている人が電車を満員にしていると言える。それだけの人が働いているのに、これだけ幸せになっていない人がいる。

そう考えると、私達は「仕事」をどのように考えるべきなんだろうか。自分が一生懸命何かをやったつもりでも、それは社会にとって何の役にも立っていないとしたら、虚無感が半端じゃない。

もちろんそれは自己満でいい。自分がその行動を取って幸せになるのなら、サッカーをしてもいいし、会社員をしても良い。なんでもできる世の中なのだから、自分が幸せになる行動をして、他者を幸せにするべきだと思う。

だが、驚くほど日本人の中にそのような考え方を持っている人は少ない。政治にも興味がない、仕事にも興味がない、趣味は何かしら金を使って得られるものを集めている人はいるが、一生懸命やっている人もあまり多くはないだろう。

お金が関係してくると、責任が生まれる。それによって、楽しかった行動が楽しくなくなることも多い。一生懸命自分が料理を作って、友達や家族が「美味しい、美味しい」と食べてくれたら、誰でも料理をしてたくさんの人に喜んで欲しいと思うだろう。

だが、レストランを開店すると、美味しくないと言ってくる客もいれば、接客が悪いとか、値段が高いとか、ビールのグラスが冷えてないとか、いろいろ言ってくる人がいる事は想像しやすい。

そうなるとたちまち、好きなことやってお客さんを喜ばしたいはずなのに、好きじゃなくなってるな。となる。

最近では、そういうことを避ける人が多いのか、料理研究家という職業も出始めている。それなら接客がないので、より料理を楽しんで作れるだろうし、レシピを公開して多くの人に喜んでもらいやすいかもしれない。

やりたいことをやり続けるには、単に仕事として選んで、その中に飛び込むというよりは、微調整が必要になる。「人に役に立つ仕事をしたい!」という人は多い。だが、広すぎる。

介護のように人と触れ合って役に立ちたいのか、がんの特効薬のような、研究開発をしたいのか、わかりやすい人の役に立つ仕事であっても、自分の耐えられることや得意なことは全く異なる。

仕事を経験していく上で、ドンピシャで自分の好き嫌いが適合していくことは、かなり少ないだろうし、なんだかんだチームワークは求められるので、変な人がチームにいたらもうその時点でつまらなくなるかもしれない。

”夢”という言葉を使うから、壮大なイメージになってしまうが、実際は現実でしか無いし、現実の中で楽しいことを考え続けられる気力と根性が求められる気がする。

やっぱり株式投資をしていても、好きな人は1日中どこまでも株のことを考えている。自分は注文を出しても、それを忘れていて損失を被ったりするくらいマヌケなので、そういう人は結局は好きじゃないということなのかもしれない。

好きが現れていない奴の夢が叶うわけがない。サッカーを知らない人間がサッカー選手になれるわけもないし、サッカーのことをずっと考えている人がサッカーに関係するような仕事に就くと、おそらく充実した人生になる。

イチローがプロになってからは、野球が楽しいと思ったことはないと過去に語っていた。それは、楽しいの概念にもよるだろうが、アマチュア時代の一生懸命野球に向き合っていた感覚は、プロでもきっと楽しいと思う。

だが、プロになるということは、良いパフォーマンスを発揮できなければ、そこで終了になってしまうし、好きな野球ができなくなる恐怖と闘いながら好きなことをやるという、人生が入れ子のように複雑化しているからかもしれない。

とはいえ、全く好きでもない、やりたいとも思ってなかったことで野球選手になる人はいない。野球選手になりたいと思うから誰もが野球選手になるわけで、大学受験に失敗してアルバイトじゃ生計立てれないから、25歳から野球選手になるか。みたいな人は存在しない。

日本の人口は単純に減少している。それならば、より多くの人が夢の仕事に就きやすくなるとも思われる。でも、案外そうでもないんだろうか。人間が少なくなるということは、需要も少なくなる。野球を見る人が減れば、野球の興行が減るし、野球選手も減らさざるを得ない。

自分のやりたい仕事がどの時代もずっとあるわけじゃない。昔は大手新聞社に勤めていれば、一生安泰と言われていたし、一生安泰になることが果たして幸せなのか。という疑問も現代ではある。

YouTuberや芸能人の寿命は長くて10年だったとしても、10年で人の一生分以上稼げるなら、それでも良いだろうし、それこそリタイアしてから自由に時間を使うことができる。

何がやりたいか?という問いに対して、回答は難しい。将来を見据えてのことなのか、今現在の不満解消や欲望のことなのか、それとも過去の失敗からの反発なのか、時と状況によって変わることもある。

過去の自分は、現在の自分がこんなことになっているなんて思いもしなかっただろう。自分なりにいろいろやってきたつもりであっても、自分なりにいろいろやってるだけでは世の中どうにもならないこともある。

すごい小説を書ける人だとしても、それを世間に発表しなければ、その人はなんでもない人でしかない。

なぜ自分が会社員という仕事が嫌なのか考えてみると、おそらく言われたことをやることが全てだからだと思う。逆に、なぜ不安定な収入のnoteを続けているのかは、自分が考えて作り出しただけの誰からも言われていない仕事だからだと思う。

自分のことを見つめ直すうちに、おそらくこの違いはかなり大きいんじゃないかと感じるようになった。

漠然とフリーランスになって、好きな時間に働きたいと考える人は多い。だが、実際のところ、労働環境以外に自分が考えたことをやりたい人なのか、人から言われた仕事をやるのかで、全く人生の質や満足度が異なる可能性がある。

ゲームを制作する会社に勤める人達は離職率が低いらしい。それは小さい頃からゲームを作るのが夢で、おそらくゲームという仮想世界では創造性を誰もが十分に発揮できる満足感のある仕事だからかもしれない。もちろん部門によって離職率は違うだろうが、自分の考えたことが収入源になる人生を送る人は、かなり満足度が高いように思える。

私は文章を書くのが好きだと思っていた。だが、実際のところは「広告ライター」や「芸能ライター」みたいなことでは全く無いのだと思う。調べて何かを書くとか、人から言われたことを書いているのでは、全く自分のやりたいこととは異なるんだと思う。

私はただ、自分の考えを多くの人に発表したいだけで、それがたまたま文章という形になっているのだと思う。もし、お笑い芸人になっていたら舞台の上で、このようなnoteの記事みたいな事をずっと話して、笑いも交えていたかもしれない。

世間に自分が思っていることをぶつけて、逆に世間の人が普段どう思っているのか違いを聞きたい。そういう感覚がもしかしたら、学生時代に精神科医を目指した感覚と共通する部分があるように思える。

世間と感覚が違っている人の助けになりたいとも思うし、自分の同士のような人とも出会いたいと考えていたかもしれない。単に、自分の感覚が世間とズレすぎていて、自分の精神状態に興味があったので研究したいというモチベーションもあったかもしれない。

お笑い芸人だったら、人と同じことをやってはダメだし、違っていることこそが認められる。そんな世界だからこそ、自分が生きていけそうで居心地が良さそうとも思った。だが、今のテレビにはそういう感性もないし、常識人であることを矯正される。

すぐに仕事を辞める自分が、社会に溶け込もうとするほど精神を削られる。普通の人間なら毎日満員電車に乗って、嫌だと思う仕事を何十年も生活のために続けられる。そのような人生が続くのなら、生きる価値はないと判断する私は、普通の人間ではないということになる。

生きたくても生きられない人は世の中にごまんといる。そんな人達の前で、自分の人生が面白くもないし、やりたいこともないし、夢に向かって努力することもない。なんてことを言いたくない。

嫌々仕事をするなら、その仕事を夢にしている人に譲るべきだろうし、自分の代わりはいくらでもいる。

そういう考え方は日本にはない。単に続けることが美徳だろうし、嫌なことに耐え抜くことで英雄になれる。

世の中に金がなくて、夢があるだけ一生懸命努力するだけで生きていけるとしたら、それは幸せな世界になるんだろうか。金のために誰も何かを諦めなくて良いとしたら、もっと社会が良くなる気がする。


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