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愛を犯す人々③陽菜子

 セックス、セックス、セックス、セックス。自分、バカじゃないの、って、陽菜子は内心、呟くのだ。そんなこと、全然、大したことじゃないのに。そんなこと本当は、大事なことじゃないのに。でも、紬さんにさよならを告げて2週間もすると、また、LINEを送ってしまう。紬さんはすぐに優しく、じゃあ来週なら、何曜日がいい? って訊いてきて、それでまた、陽菜子は紬さんの家に押しかける。紬さんに甘えに。紬さんに満たしてもらうために。紬さんに、全てを、与えてもらうために。今ちょうど、紬さんのマンションの前で、紬さんに触ってもらえるって、考えるだけで汗ばんできて、むずがゆくて、もどかしくて、いてもたってもいられなくなる、ちょうどこんな風に。こんな風に、できるだけ長く紬さんといられるように、今日の仕事を中途半端なまま明日に回して、電車に乗っている時からだらだらに濡らして期待いっぱいで、こんな風に、いま、浮ついた気分で、ドアが開くのを、立ちつくして待っている、そのためだけに、生まれてきたみたいに。陽菜子はこんな、セックスバカじゃないのに。

 いらっしゃい、どうぞ。

 ドアが開く。石鹸の香りと湿気が、陽菜子を迎える。陽菜子は吸いきれないその空気に息が詰まって、ああ、もうだめ、って思う。もうだめ、早く、早く裸になって、紬さんと抱き合いたい。紬さんに焦らされて、紬さんに愛されて、紬さんにめちゃくちゃにされたい。紬さんは白いネグリジェ1枚で陽菜子を迎えた、光沢のある生地、淡い色合いの、まばらな唐草文様、化粧っ気がないようでいて、うっすらパフをして、アイライナーと眉だけは引いて、香水を付けている、ミディボブの黒髪に、玄関の照明が当たって光の輪を作る。「キレイ」。陽菜子が捕まえた、陽菜子が囚われた、陽菜子のための、陽菜子の恋人。

 あらあら…。

 紬さんはいきなり陽菜子のスカートに手を弄り入れて、下着を引きずり下ろした。

 ふふ。糸、引いてるね。私のこと考えてたの?それとも、エッチなこと考えてたのかな。

 紬さん…。

 いいよ。助けてあげる。辛かったね?

 紬さんはおいで、と言って、陽菜子をソファに導く。そう、この体温、この指先、この柔らかさ、この優しさ。陽菜子は胸が高鳴って苦しくて、でもこんなのは、紬さんにもう、会えないかもしれないと思って感じる苦しさに比べたら、なんてうっとりするような、甘い、甘さで胸いっぱいになる、喜びに満ちた苦しみだろう、…こんな苦しさ、…こんなに苦しいのに、陽菜子はいまやっと、息ができる場所に着いたみたいだ。

 私、映画、観てたんだけど…。

 紬さんは言い淀んで、陽菜子にロリポップを出して見せた。

 好き?

 好き…。

 紬さんがくれるなら、陽菜子はなんでも好きなのだ、だって紬さんは、陽菜子が好きなものしか、くれないのだから。陽菜子は、高鳴りすぎて痛いくらいの胸を、そっと押さえた。

 でも陽菜子は、映画を観に来たんじゃないもんね?何しに来たの?ね、言って、陽菜子の声で。

 紬さんは包装を剥いて、味を確かめた。いまから、その唇が、舌が、ぜんぶ、陽菜子のもの。

 ん…? 大丈夫、陽菜子が思ってること、そのまま言えばいいんだよ。陽菜子は、何しに来た?

 陽菜ね、…紬さんに、エッチなこと、いっぱい、してもらいに来たの…紬さん…。

 こんな時の、紬さんの無言の笑みは、陽菜子をとても、幸せな心地にさせる。紬さんの、ゆっくり味わうようなキスはとても、気持ちいい。ソファに腰掛けて、ロリポップの味がなくなるまで、陽菜子は紬さんに煽られて、求められて、逃げられて、また追われて、追い詰められる、紬さんを、求めて、駆け引きにまたうっとりして、紬さんの歯にそって舌を這わせる、息継ぎをして、鼻を擦り合わせて、ついばんで、また深く、舌を絡める。

 紬さんも気持ちよさそう…陽菜子は嬉しくて、そんな陽菜子を見つめる紬さんも嬉しそうで、また嬉しくなって、こんなに自由に、こんなに自然に、こんなに露わに、ただ、気持ちのいい自分でいられることに、…会うたびにそうだけれど、紬さんに出会えたことに、感謝する。誰に?誰にかはわからない、神様に?自分に?紬さんに?航平に?

 私、映画の続き、見ちゃおうかなぁ。

 紬さんは陽菜子に、舐めるところ、見せて、と言って、ロリポップを渡す。陽菜子は舐めてみせる、紬さんはにこやかに、じっと、陽菜子を見つめて、見られるの、嬉しい?って、訊く。

 陽菜子は、紬さんには、素直に打ち明けられる。

 うん…見てもらうの、好き。

 ね、いっぱい見てもらえて、気持ちいいね?

 紬さんは陽菜子の頭を撫でて、髪を手で梳く。陽菜子の口元を、微笑んで、じっとりと見つめる、紬さんの瞳にはいま、なんのためらいもなく欲情しきった陽菜子が、映っているのだと思って、陽菜子はまた、体が熱くなる。

 陽菜子はポーランド語わかる?

 ううん、まさか。

 じゃあ、目隠ししよっか。陽菜子はずっとこれ、舐めて、感じててね。映画が終わるまでずうっと、触っててあげる。好き?してほしい?

 陽菜子は心ごと、まるごと、ぶるっと震える、期待と、感謝と、喜びで。

 してほしい…。

 紬さんは陽菜子にジェラートピケのアイマスクをさせた。キャミソール一枚になった陽菜子を、ソファの前に立たせた。陽菜子の右手は、紬さんの…左手?に、乗せられて、そのうちに紬さんの指が陽菜子の、剥き出しの陰部をかすめた、陽菜子は開いた口からロリポップがこぼれおちないように、溢れ出てくる唾液と一緒にロリポップを吸い戻して、歯で留めた。

 こっちの手は、繋いどこうね。こっちで飴、持っとこっか。

 何か硬くて冷たいものが腿裏を滑って、陽菜子はびくりとした。リモコン…?

 映画はね、見始めたばっかりだったの。陽菜子がそこに立ってれば、陽菜子のことも、よく見えるよ。今も見てる。嬉しい?

 うん…うれしい。

 綺麗に、洗ってから、きてくれたんだね…。

 紬さんは息がかかるほど近くで、陽菜子の襞の、内側も外側も、指で丁寧になぞって、陽菜子を確かめた。

 ああ、ほらね、陽菜子も嬉しいんだね、いっぱい、滴り落ちてるよ。

 次はどこを触られるかわからない。映画はいつ、終わるともしれない。陽菜子の太腿を、溢れた陽菜子の欲情が、はしたなく伝い落ちる、後ろから聞こえる、聞き慣れない音楽、知らない言葉、紬さんの視線、紬さんの指、紬さんの爪、紬さんの頰、紬さんの唇、紬さんの歯。キャミソールの上からしつこく擦られる乳首、何味なんだか結局、わからないロリポップ、ぜんぜん触ってもらえない、いちばん触ってほしい場所。陽菜子はこんなセックスをずっとしたかった、陽菜子はずっと、こんな愛されかたをしたかった、陽菜子は切なさと喜びでもう何が何だかわからなくて、途中から泣いてしまったけど、紬さんは映画が終わるまで、やめないでいてくれた。

 ね。水溜りみたいに、なってるね。

 アイマスクを外した陽菜子は、自分の愛液を踏んでしまって、紬さんに床と一緒に足を拭いてもらった。それからまた、長い長いキス…もう、だめ、ほんとうに、陽菜子は絡め取られてしまう。

 よかったね?

 紬さんは微笑んで、陽菜子の頭を撫でてくれる。陽菜子は頷くだけ。紬さんは目を細める、そんな紬さんと見つめあって、陽菜子は、もうほんとうにだめ、こんなの、おかしい、自分の体のこと以外、何も考えられない。

 紬さん。

 何?

 あのね…陽菜、あれ、してほしいの…。

 前のやつ? きつくなかったの?

 うん…いっぱい触ってもらえて、すごくよかった…。

 うん、いいよ、じゃあ、慣らさなきゃね、と、陽菜子にそっと囁いて、紬さんは陽菜子をベッドに向かわせた。

 陽菜子はいつも、紬さんの家から帰るときには、みんな、陽菜子がこんな、まるで大雨に打たれてずぶ濡れになったあとみたいな、疲れ切った、もう、なにもすることなんてない、あとは家に帰るだけ、という気分になっているのを、知らないのだと思って、不思議な気持ちになる。陽菜子には陽菜子の世界があるんだ、と、不思議な気持ちになる。陽菜子がいま、ぼうっと眺めているひとたちの中にも、こんな気持ちで家に帰っていくひとがいるんだろうか、だとしたらその人は、誰にも言えないこんな幸せを、どうやって、零さずに持って帰る?陽菜子からは幸せが溢れてしまっていて、だから、陽菜子は、こんなに、ずぶ濡れなのだ。

 よかった、航平は帰っていない。

 陽菜子はそっと浴室に滑り込んで、気だるい体にシャワーを浴びせる。なにもかも朝、家を出たときと同じに片付いていて、なにもかも、変わらない、陽菜子と航平の部屋。陽菜子のシャンプーと、航平のシャンプー。陽菜子の洗顔料と、航平の洗顔料。陽菜子は、紬さんの部屋に女の子か女の人が一緒に暮らしているのを知っている、歯ブラシがだいたい月に1回変わるのも、その人が紬さんとは違うバスタオルを使っているのも。その人は今日、どこでなにをしているんだろう、どうしていつも、いないんだろう?

 浴槽に浸かっていると、裸の航平が突然、入って来た。

 俺も入っちゃうわ。

 うわ、びっくりさせないで。

 ヒナも遅かったね。

 うん…なんか、うまくいかないよね、納期わかってんのにさぁ。なんでこうなるんだかね。

 陽菜子は答えながら、浴槽の中で体を丸めた。

 手首まで入ったよ。今度、後ろもしてあげようか。ああ、でも、もうおなか、いっぱいかな。

 ぐるり、と、動かすときに当たる、紬さんの関節の凹凸…。

 大変なんだ。

 まあまあね。

 疲れてる?

 まあまあね。先に、あがるね。

 航平がいなかったら、陽菜子は紬さんと「お付き合い」していただろうか?ううん、…ううん、航平がいなかったら、きっと紬さんに会っていない。航平がいなかったら、航平が仕事で来れなくなったあの日、あのバーに寄って帰ってないし、航平がいなかったら、私、結構、悪い子なんですよ、なんて言わなかった。航平がいなかったら、…航平がいなかったら?そんな人生、ありえない。

 結婚しているのに、恋愛って、おかしい? …恋愛? これは、恋愛? 恋? 愛?

 陽菜子は洗面台の鏡に映った裸の自分を見つめた。今日、紬さんが見ていたのは、だれ? 紬さんが、見ているのは?陽菜子は紬さんにとって、だれなんだろう?

 だめなんですよ、なんだか、誰とやっても、結局、足りなくて。最近はもう、虚しいし大変だからいいやって、あんまりそういうのしてなくて、なぁんだ、結構私も、誠実なんだなって、思えるようになってきたんです。興味は、あるけど…。

 紬さんは、…あのバーに陽菜子が訪れるのをずっと待ってたみたいに、うっとりさせるような、あの、柔らかで確かな声で、陽菜子に囁いたのだ。

 足りないところ、全部、埋めてあげるよ。

 陽菜子がコットンで頰を叩いていると、航平があがってきて、あがってくるなり、あ、やべ、耳に水入ったっぽい、と、片足立ちしてぴょんぴょん跳ねた。

 ちょっとなに、潜ったの。汚いと思う。

 バッカお前、二人とも体は洗ってから入るんだから、汚ねえっつうほど汚ねーわけねえだろ。

 水が出たらしい航平は、バスタオルを頭から掛けたまま、後ろから、ぽん、ぽん、と、陽菜子の頭のうえに手を下ろした。

 あんまり無理、すんなよ。休み休みな。

 ん。ありがと。

 まだ髪、乾かしてないのかよ。もう寝るぞ。俺、向こうでビール飲んでるわ。早くな。

 うん。

 陽菜子はドライヤーをかけた。

 陽菜子は自分の暗い推測を疑って、紬さんに2ヶ月、連絡を入れずに過ごしてみたことがある。紬さんはなにも言ってこなかった。まるでいなくなってしまったみたいに。まるで初めから、何にもなかったみたいに。それで結局、陽菜子は紬さんにまた、LINEを送ってしまった。それからもう何ヶ月だろう。陽菜子はずっと、もう連絡はしないでおこう、もう連絡をしなくても、きっと紬さんからは何一つ、音沙汰はないのだから、もう連絡しないで、はじめから何も起きなかったみたいに、航平と毎日こうやって暮らして、もしかしたら子どももできて、そうやって毎日を過ごしていくことが、陽菜子にはできるのだ、と、思う。

 でも、だめだ、全然だめ、陽菜子は、紬さんにさよならを告げて2週間もすると、また、LINEを送ってしまう。そして紬さんはすぐに、優しく、訊いてくるのだ。

 じゃあ、来週なら、何曜日がいい?

今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。