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大人の領分①茅瀬(ちせ)

   最後から何番めの恋かなんて、茅瀬は一度だって考えたことがない。恋はいつも、茅瀬には最後の恋で、そんな恋の最期を、けれど、茅瀬は一体、何度経験してきただろう。

  数えたことないの?

  智史は曖昧な笑顔を茅瀬に向けた。

  数に意味なんて、ないと思うけど、智史には、大事?

  そりゃあ…。いや、違うんだよ、数じたいを聞きたいんじゃないんだ。なんていうか、茅瀬は今まで、どんなふうに人を、好きになってきたのかなって。気にならないわけないよ。俺に気を遣ってくれてんのかなって、俺なんかは、おめでたいから思っちゃうけど、でも、もしほんとうにそうなら…数えられもせず、名前も忘れ去られて、俺だけ傷を抱えて生きていくような、そんな思い出になるんだったら…こんな関係の男にだって、それなりに覚悟がいるんだ。

  こんな関係って、どんな関係?  こいびと?  あいじん?  おともだち?

  智史は茅瀬の眉を指でなぞって、瞼に口づけて、まつ毛を舐めた。

  難しいな。恋人かな。でも、恋人っていうには、茅瀬のこと、愛おしく思いすぎてる気がする。友達と言うには…特別すぎるし。それにしても、愛人って感じは、しないな…。

  立ち位置としては愛人だけどね…?  なんていうの、女狐…?

  はは。うちはほら、いわゆる契約結婚だもの。そういう意味での奪る奪られるのトラブル、本当、ないんだよ。まだ、疑われてる?

  だって、智史、なんだかコソコソしてるもん。

  うーん、そこはそこ、マナーというか…お互い知りたくも、知られたくもない部分というか。でも…本当のことなんだ。あまり、理解はされないよね。だから世間的にはツガイなんだけど、俺たちのなかでは、絆っていうか、一生一緒にやっていくっていう、入墨とか、証みたいなものだよ。

  智史と茅瀬の出会いは遅すぎた、と、よく、智史は言う。茅瀬は…茅瀬はいまいち、わからない、「もっと早く会っていたら」…?「もし」「だったら」という言葉は、茅瀬はあんまり、好きじゃないのだ、意味が、ないから。出会う時期なんて、自分の力じゃ、変えられないことだ。それは無力じゃなくて、事実なのに。どうして、前を見ない?  どうして、ただ、せめてこのタイミングで出会えてよかったと、思えない?  どうして、自分の「今」をそんなふうに、歪めようとする?  智史はこんなに、茅瀬が夢中になるような、素敵な男性で、それは、今まで生きてきた、今の智史が好きだということで、それは茅瀬には、智史を丸ごと愛することだ。それを、その茅瀬の愛情を、智史の、何も生まない「もし」が否定してしまっていることに、茅瀬は傷ついているのだけれど、いつも、その気持ちは、うまく話せない。

  智史には15年以上、苦楽を共にした共同経営者の女性がいて、2年前に茅瀬と出会ったとき、智史はその女性と入籍して3年が経っていた。智史と茅瀬は静かに惹かれあって、去年、やっと、気持ちを確かめ合えた。はじめから智史はずっと、配偶者とは肉体関係がないまま入籍して、今もない、と言っていて、茅瀬は信じていなかったし、今も、信じていない。「もう、そういう仲じゃないから」と、言う人はたくさんいるけれど、茅瀬は、どうせなら、茅瀬を愛するように、ちゃんと相手も愛してあげてほしいと思うし、そういう人なら結局、茅瀬とも「そういう仲」じゃなくなる日が来るのを、知っている。だから、智史の言っていることは、茅瀬にはわかるようで、わからなくて、その部分を見ようとすると、急に視界が翳って、智史が見えなくなる。

  こういう愛し方もあるって、思ったんだ。だって35にもなって、それなりの数の女の人と好いた腫れたを経験しても、満たされなかった中で、彼女だけはずっと、俺の側にいたんだよ。彼女にとっての俺も、そういう人間だった。法は、そう定めたのかもしれないけどね、必ずしも、性愛が人を結婚させるわけじゃない。俺は、俺にも人を愛せるということについて、俺なりに結論を出したつもりだったんだ。俺はもし時間を遡れるんだったら、結婚前に戻って、茅瀬を必ず見つけて、結婚してもらえるまで、あきらめないよ。でも、もうだめなんだ。それは俺が、この方法で目の前の一人の人間を愛すると決めた、その人を裏切ることだし、なにより、そう決めた俺自身を、否定することになる。だから、だめなんだ。

  智史はいつだったか、天井を見つめて、気まずそうに、そんな、わかりそうな語彙でわかりそうに組まれた、全然わからない話を、結論だけ言えばいいような話を、秘密の話をするみたいに、話していた。

  茅瀬?  茅瀬は…結婚は、してもしなくてもいいけれど、結婚するなら子どもは欲しいと思っていて、でも決心がつかないまま、高齢出産と言われる年齢に届いてからは、自分で産まないという選択もあることについて、茅瀬なりに考えて、もうしばらく恋を楽しんだあと、もし、気が合う人がいれば結婚して、もちろん、まだ間に合えば自分で産んでもいいだろうし、間に合わなければ、養子を迎えたって、それは叶うだろうと思っていた。

  つまり、智史は茅瀬とは結婚できなかったし、茅瀬は、智史と結婚する必要がなかった。茅瀬にとってそれは、智史との時間が人生の中にある、ということに比べたら、本当に大したことではないし、智史が踏み外さずに茅瀬と歩けるなら、それでもう万事解決なのだけれど、智史は、何か難しい事情があるようなふりを、して見せたがるのだった。

  智史はふと、思いつめたような雰囲気で、茅瀬の前髪を整えて、耳にかけた。

  わかってるさ。俺は最低な、自分勝手なことを言ってるし、俺には茅瀬を縛る権利はないって、わかってる。頭ではわかってるし、もう大人だから、ちゃんと対応だけは、してしまうと思う。でもね。俺は茅瀬を諦められないと思うんだよ。何十年もかけて、なんにもない、茅瀬のいない世界を旅して、やっと茅瀬を見つけたんだ。茅瀬がもし…ううん、言葉にもしたくないな。俺、怖くて明日のこと考えられない時があるんだ。時間が、止まってしまえばいいのに。大概、虫のいい男だね、俺も。

  さあ…。

  茅瀬は、この話題は苦手だ。智史はたぶん、茅瀬に対してもっとできることがあると思っていて、それをしていない自分に齟齬を感じている。茅瀬は、智史を好きになる以外のことは、なにも、できないし、それ以外になにかをする気もない。

  茅瀬は、明るいのがいい。考えてどうにもならないなら、この場合、考えないという選択肢はあるのだから、考えなければいい。智史のような込み入った自己弁護は、茅瀬には関係ないことなのに、どうして、伝わらない…?

  茅瀬が体をくるりと反転させて、智史の腹に背中を押し付けると、智史は腕を回して、茅瀬を抱きしめた。

  茅瀬。好き。

  茅瀬は上向いて、上向いた茅瀬の額に、抱きしめる智史の頬骨が当たった。

  茅瀬。好きだよ。とても。このまま、抱きしめつぶしちゃいたい。

  茅瀬は智史に出会ってから、上に乗って自分で動くことに、幸せな気持ちを見いだすようになった。茅瀬といる智史はいつも、うっとりとした表情で茅瀬を見つめて、茅瀬の輪郭を、暗記しようとするみたいに、優しく、何度も、なぞる。そんな智史の表情を見つめて、茅瀬は智史のことを、すごく、好きだと思うし、ずっと好きでいたいと、思う。

  重ねた掌に、智史の掌の熱気を感じながら、智史の体に、自分の体の前面をかすませて、茅瀬はリズムに合わせて、智史の名前を何度も呟く。

  胸…自分でこするの、気持ちいいんだ? 凄く、いい顔してる。

  うん…もうちょっと、してていい?

  もちろん。いいよ。茅瀬のペースで、楽しんで。

  茅瀬は今まで、自分でいちばん気持ちよくなれるまで、こんな風に待ってもらえることがなかった、相手が待っていると思うともうだめで、いつも、相手に合わせていて、いつも、どんなに激しくしたって、震えて鳥肌が立つほど気持ちよくたって、心のどこかが、物足りなくて、けれど、智史は全然、違った。茅瀬が見ると、そこには必ず、茅瀬に手を差し伸べた智史がいる。茅瀬が眼差しを向ければ、そこに、茅瀬を愛おしげに見つめる智史がいる。茅瀬が指先を向ければそこには、茅瀬を求める智史の指があって、キスしたければ、茅瀬とキスしたいと思っている智史がいる。こんなに清らかな、ためらいのない性欲、茅瀬は知らなかった、茅瀬は知らなかったのだ、「好き」と、「セックス」が、こんなふうに密接に…まるでそう、いま、茅瀬と智史が繋がっているような仕方で、繋がっているなんて。

  よかった?

  うん…。

  疲れてない?続けられそうなら、交代しよう。…一旦抜いて…。

  智史は少し下がってしまった茅瀬の頭を持ち上げ、枕を入れて、茅瀬の膝を抱えた。

  一回、深い体位していい?茅瀬の奥まで、入りたい。

  うん…。

  智史は茅瀬の顔をじっと見つめたまま、静かに体を沈めた。智史が進むにつれて、どっと、智史の気持ちが流れ込んできて、茅瀬の全身に、やさしく、まぶしく、拡がる。茅瀬はかすれた悲鳴を漏らして、智史が、堪能するように壁を擦りながらせりあがってくる、快感に、耐えた。

  …。茅瀬、大好きだよ。茅瀬も、気持ちいい?気持ちいいね…?嬉しいな…。

  ん…私も、好き、智史のこと好きで、嬉しい。…嬉しいの、いま…すごく…気持ちよくて、気持ちいいのが、嬉しい…。

  今日は、ゆっくり?  緩急つけて、ちょっと激しいの、挟もうか?

  智史が…好きに、動いていいんだよ。好きにしてほしいの。

  茅瀬。茅瀬が好きだと思ってくれるのが、俺には一番なんだよ。茅瀬がいいと思ってくれなきゃ、ただ俺が気持ちいいだけで終わっちゃう。そんなの、勿体無いんだ。俺には本当に、大事な時間なんだよ、もっと好きになってほしいんだ。もっと、俺の体、好きになってほしい。

  もう、こんなに、好きなのに?

  もっとだよ。



  茅瀬は、ホームに向かう階段を登りながら、改札の前に智史がもういないのを見て、寂しいとか、切ないとかいう考えが頭をよぎるくせに、心の奥ではどこか、ほっとした気持ちになった。

  そうだ今日は平日だった…もう、こんな時間だ。帰宅ラッシュが、落ち着いてきていた。帰ったら、なにか大きな抜けがあって間に合わないのは嫌だから、週明けの案件準備だけは、しておかなければ…茅瀬は自分から言ったことだったのに、智史が、時間、大丈夫?と尋ねるまで、すっかり忘れていた。必ず今日、しなければいけない仕事でもなかった、ただ茅瀬は、…今日はなんとなく、智史が、帰らなきゃ、というのを、聞きたくなかった…。

  つい数時間前、まだ朝の光が残っている、待ち合わせ場所のガードレールに小鳥みたいに腰掛けて、茅瀬に振るために、ポケットにしまっていた手を出して上げた、その瞬間の智史のとびきりの笑顔を思い出した。智史のことを思い出すとき、茅瀬は、暖かい日の日差しが降り注ぐような、それと同時に、失くしてしまった大切な写真をぼんやりと思い出すような、不思議な気分がする…もう少し…もう少しだけ、記憶の中で生きていたい。茅瀬は鞄からのろのろとイヤホンを引き出して、ピースを耳に押し込んだ。

wanna be your…

  向かい側の電車が来て、音がかき消される。

  手を離すのは、いつも向こうなんだよ。私は離された手を振って、また前を見て歩き出すの。

  智史と付き合いだした頃、どうして前の人と別れたのか訊かれた茅瀬は、智史にそう答えた。

  ずっと離さないよ。俺から離すことは絶対にない。ね、怖いこと言わないでよ。置いていかないで、ね…?

  握っていた指先に、優しく押し当てられた、智史の唇の感触…茅瀬は、携帯を支えている右手の指を、左手でそっと、覆った。

  ホテルの部屋まで上がるエレベーターの中で、今日の智史は、茅瀬と繋いだ手を、握り返すでも、愛撫するでもなかった。横顔はうわの空に、上昇の表示を見つめていた…。

  茅瀬は、考えごとをしていて、自分が好きなフレーズがいつのまにか、終わっていることに、ようやく気づいた。昨日ダウンロードした曲だった。茅瀬は曲を一旦、初めまで巻き戻して、どこでかかるか順番をまだ覚えていない、そのフレーズを探したけれど、見つからないまま、途切れ途切れに他のフレーズが耳に入ってくるばかりだった。茅瀬はそんなことにこだわっている自分がなんとなく、怖くなって、結局、また初めまで巻き戻して、そのメロディが出てくるまで、じっと曲に耳を傾けた。

  ホームに上がったのは、ちょうど、電車が行ってしまったあとだったから、茅瀬は次の電車まで、思っていたよりずっと待たなければならなかった。速度を緩めずに特急が通り過ぎて、茅瀬は音量を上げた。特急が、行ってしまうと、音はひどく大きく感じられて、茅瀬はまた、音量を下げた。


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。