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砂漠、薔薇、硝子、楽園、 (17)

feat.松尾友雪 》》》詳細 序文

》》》16.
「つまり、君は知ってる」

>17.ニキ_

落、ち、る…。

仁綺は、落下していた。気持ちだけは穏やかで、けれども、なんの身動きもできないまま、ただただ空が、落下する速度で逆さまに、流れ落ちていた。風を受けて、頬が冷たかった。

どうして落ちている?

どこから飛び降りたんだっけ?

…それは、知らなければいけないこと?

地面が近づいているはずなのに、空中に張り付いて、止まっているようにも思えた。いつまでも、落下していた。向こうには逆さまになった水平線が見え、はるか真下に、都市が見えた。

気絶しない。いつ到達するかしれないけれど、地面はたぶん、近づいている。目覚めなければ、死んでしまう。

死ぬ? 夢なのに? …夢の中で死んで…目が覚めなかったら? その時、仁綺はどこにいる?

地形から、東京湾だと分かった。仁綺は焦る気持ちで胸が苦しかった。せめて気絶しないと…地面に落ちるその瞬間まで、気がついているわけにはいかない。せめて、気を失わなければ…。仁綺は、地面を「見上げた」。雲間にビル群が、凄まじい速度で、近づいていた。仁綺は雲を突き抜けた。真っ白な中へ切り込む。氷粒が頬を打つ。白く、冷たく、血が凍るようだ…。

凍ったら、…凍ってから落ちたら、硝子のように、仁綺は割れてしまうだろうか?

ばらばらになった仁綺を、誰かが拾い集めて…それから…?

落ちる。

落ちる。

ビルの表面を、浮いて滑る。落下する。落ちていた。反射窓に自分が見えた。白のワンピースだ。萎れた花のように、くしゃくしゃになって、体に張り付いていた。浮いている心地は理性のなか、認識のなかにしかなかった。仁綺はただ落ちていて、空を切り裂いている、向かい風のせいで体が、水中を貫くように重かった。

落ちる。

血が引く感覚とは逆に、視界は清明だった。明るい。晴れている。歩道の雲母石が眩しい。仁綺は瞬きもせずに、自分の向かう先を見つめた。

落ちる。

ぶつかる。

もうだめだ、もうだめ、地面が…。



仁綺はおおきく、目を開けた。天窓が見えた。薄明だった。呼吸が苦しく、心臓は空回りしそうなほど早く打っていた。膝を立て、また脚を降ろした。ベッドマットは、朝の冷気で冷えていた。ブランケットが裸の肌にしっとりと、纏わりついているのを、仁綺は感じた。
「ああ。ごめん、起こしてしまったね」
スグルが隣に、腕を枕に寝そべっていた。腕時計がない以外、七分に捲った白い麻シャツに黒いスラックスの、出かけたままの格好だった。
「スグル…」
「ニキ。君は、夢でしか、泣かないの?」

仁綺はスグルの視線を感じて、指の背で、頬を拭った。スグルは仁綺のその手を取って、仁綺の指が涙で濡れているのを、押さえる仕草で調べた。
「どういう意味? 私は、泣き虫だよ。もういい大人なのに、すぐに泣いてしまう。悲しくても、嬉しくても、疲れていても、気持ち良くても」
答える仁綺の唇を、スグルは人差し指で辿った。
「でも、つらくて泣くことはない」
「……」
仁綺は、スグルの指先を唇で押し返した。

「ニキ。君はずっと、ひとりで、泣いている。ずっとね。君は、僕には知りようのない世界にいて、そこで君はずっと、ひとりで泣いてる。僕には、それがつらい」

仁綺は唇をなぞっているスグルの手を導いて、鳩尾の上に置かせた。
「宇宙…という意味でなら、世界はひとつしか、存在しない。その定義では、スグルには知りようがないとしても、私はスグルと同じ世界には、いるよ」
スグルは、目蓋を重たげに閉じて、やんわりと、首を振った。
「ニキ…」

仁綺は、頭を巡らせた。「窖」のディスプレイは全て、スリープになっている。「プラネタリウム」は早朝の、青ざめた寂光に浸されていた。静かだった。

「イヅルは?」

仁綺の質問に、スグルはため息をついた。仁綺は、スグルを見つめた。

「ねえスグル。もしかして…」

「イヅルはいない」? …ここは、どこ…?

スグルは仁綺の顔をじっと覗き込んで、ふん、と軽く、鼻を鳴らしてから、答えた。

「イヅルは、バスルームだ。けど、『考えごと』中らしい。鍵がかかってて、呼んでも叩いても、出てきやしない。僕はシャワーを浴びてから寝たかったのに…」
「…。寝ていないの? そういえばスグルは、夜に強いね」
「大概、見張り仕事だからね。多少の無理はきく体になってる。でも、…今は、飲みすぎてるかも。酒臭くない?」

仁綺は自分を覗き込むスグルの、頭の後ろに手を回して引き寄せ、スグルの唇に、唇を重ねた。
「…しゅうまいの、匂い」
「……」
スグルは口元を押さえて、上を向いて寝転がりなおした。

仁綺は腹這いに体勢を変えて、スグルの肩に頭を乗せ、スグルの顎の輪郭を指でなぞった。
「歯は…磨いたんだけど」
「そんなにはしない。アルコール臭は、私は気にしないよ。醸造酒? 中華だったの?」
「知り合いの結婚報告があって、祝い酒だったんだ。紹興酒に、砂糖を入れ始めたのが、よくなかった。強さがわからなくなって、いつのまにか、やたら飲んでた…」
「ふうん。楽しそう」
「どうだか。僕には昔から、良い知らせと悪い知らせが抱き合わせで来る。それも量ったように、同じレベルのがね」
「結婚は、良い知らせ?」
「たぶん」
「悪い知らせは?」

スグルは酒気で速くなっている呼吸を、静かにひと息ついて宥めたあと、淡白そうに答えた。
「一時的に、失業した」
スグルの様子を一瞥して、仁綺は、首を傾げた。
「評価されなかったということ?」
仁綺の言葉について考える様子を見せてから、スグルはいつもの具合に、肩を竦めてみせた。
「評価されてなかったら、かなり文字通りに『首を切られ』てきっと、ここに生きて帰ってないだろうね。チームで動きにくい状況になっただけで…だから正確には、休業なのかな…1年くらいって聞いたけど…商売柄、1年となると、休むには長すぎるんだよね。技術で遅れないように、経費にうるさくない《バイト》先をあたって…鮮度の高い仕事を、もらわなきゃ。《本社》に雇ってもらうことも考えたけど…」
「しないの?」
「《本社》勤務はハードなんだよ。僕が休むまもなく働いてるあいだ、君とイヅルはどうせ、オートミール漬けのセックス漬けだろ。死と隣り合わせの職場で、振られた仕事に注力して、九死に一生を得て、やっと帰って、それで? 君たちが、衰弱死してるかもしれない? そんなのは、僕の夢見る平和な生活に近い光景とは、言えないよ」

「平和。素敵な夢だね」

仁綺が合いの手を入れると、スグルはふと、語調を弱めて、付け加えた。
「いや、まあ、僕の…軽薄な冗談はともかく…信用問題があるからね。僕はイヅルの面倒を見るって、あの《ヂェードゥシカ》と契約してるわけだし、君とは、君の安全を確保する契約を、交わしてる。信用第一の業界だ。エンジニア仕事じゃないからといって、『有名人』たちのご用命を疎かにするわけにはいかない」

仁綺が何も答えず、おもむろに、スグルに体を寄せようとすると、スグルも、仁綺を引き寄せて、抱きしめた。

スグルは目を閉じたものの、眠るわけでもなく、腕のなかに収まった仁綺のうなじの上でそっと、指先を往復させていた。仁綺は抱き合っているスグルの脚に挟んだ腿に、スグルを感じて、それでも何事もないそぶりで優しい指先をうなじに沿わせている、スグルを見上げた。

「しないの?」
「僕にだって一応、自尊心がある。引火しそうに酒臭い、発情したしゅうまい男なんて、僕じゃないよ」
「そう? スグルに恥ずかしそうで自信なさげなところがあるのは、私にはちょっと、そそる」
「それは…僕らしいってこと? それとも、僕らしくないってこと?」
「『スグルらしくないところがあるのが、スグルらしい』というのは? 答えにならない?」
「…。体は、きつくないの?」
「それは、私の質問だな。私は、眠っていたもの」
「僕は…」
スグルは、口を開きかけてやめ、のろのろと起き上がると、ベルトを外した。
「…ぐっすり、眠れていた?」
「さあ。夢を見ていたよ。夢らしい夢だった。考えごとをしていたわけではなさそう」
「怖い夢?」
「もう目覚めてる。いまは、怖くない」
「また、眠りたい?」
「そうだね。夢を見ないほど、ぐっすり眠れると、いいな…」
服を脱ぎ終えたスグルは、ブランケットを引き下ろし、寝転がって見上げる仁綺の頭の下に、両手を差し入れて、仁綺の額に頬擦りした。それから、仁綺の左の脇から脇腹のあいだに優しく流れる、慎ましい曲線を、点で描き直すように、唇で追った。

繋がってから、二人は、波が止まる手前の水面の揺らぎのような、涼風に揺れる枝葉のような、柔らかい、定まらない速度を保ちながら、体を体で確かめあった。

やがてスグルが、両手を繋いだまま、覆いかぶさる姿勢で仁綺の肩先にどさりと、頭を落として、呟いた。

「…だめだ、酔っ払ってる」

「格好つけていたの? 別に、無理にしなくていい。くっついているだけでじゅうぶん、気持ちいいもの。この体勢で吐かれたりするのには、さすがに抵抗がある」
苦笑した仁綺の、首元に埋めた頭を振ってから、スグルは顔を起こして仁綺に口付け、応えて差し出された仁綺の舌を、歯を立てて、しごいた。

「? …あ、…? スグル…?」
「…違う。ニキ。違うんだ。その…あのね、…」
繋いだ両の手に、力が込められた。スグルは、仁綺の耳裏に火照った舌を這わせながら、囁いた。
「…加減、できないかも」

仁綺は瞬いてから、睫毛の先に淡い微笑みを灯して、スグルの手を、楽しげな軽やかさで数度、握り返した。

「いいよ。大変だったら、ちゃんと言う」

「ん…。ニキ、もし、…僕が聞いてなかったら、聞こえるまで何度でも、言ってね…」

スグルはゆらり、と、上体を起こすと、仁綺から離した手で、腰に絡んでいた仁綺の両脚を撫であげてから、掴んだ膝を押して仁綺の脚を拡げ、開いた仁綺の体に、あらためて深々と、自分を刺し込んだ。





>次回予告_18.スグル

「もちろん、お値段によるわ。高すぎるものも、安すぎるものも、お断りよ」

》》》》op / ed


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。