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心の嵐が過ぎ去った頃に

ここ最近は、心の内側でたくさんいろんなことがあった。
自分の心が嵐のような状態の時には、結構感情に振り回されがちで、どうしてそんなことが自分の心に起きているのか、真に理解することは難しい。特に1人で理解できることには限界がある。

そんな波風激しい嵐のような心象風景だった私の内的世界が、少し平和を取り戻し始めつつある。

物事が起きるときには、何かしら自分が気がついていないポイントがあって、それに気が付くことは自分にとっての滋養になる。
今回、私が得た滋養(=気づき、理解)は、「感じ分ける」ということだった。

何を感じ分けるのか

そもそも、感じ分けると一言に言っても、いろんなベクトルがある。

悲しみと哀れみ、憂い、絶望…

例えば、悲しみと一言に言っても、人それぞれその感じ方は違うし、似たような他の感情とも違うことを感じ分けられるかどうか。そういう感じ分けもあると思う。

でも、今回の「感じ分ける」は、感情の種類を感じ分ける、という話とは別で、「誰の感情か」を感じ分ける、というのがポイントだった。


まだ消化しきったわけではないので、ここに書くのは抵抗があるため内容は伏せるけれど、私が取り扱いに困ったのは「不安」と「絶望」だった。

どちらも一旦浸ったら抜け出せないほど、私にとっては強力な魔法薬のような感情で、俯瞰してみることを日々訓練しているはずなのに、飲み込まれてしまう自分をどうすることもできなかった。

けれどある時、人にこう言われた。
「幼い頃の、お母さんが抱えていた絶望のエネルギーと同化したんだね。」


場面の特定は、時としてとても役に立つ。
あの時こうだった、という子どもの私の記憶が、大人になった今の私が見てみると、子ども視点では気がつかなかったことに気が付くというのはよくあること。

子どものそれより、大人の感情エネルギーの方が大きい。
そこに飲み込まれ、そしてそれを自分のものだと勘違いして取り込んでしまうというのは、往々にしてよくあることだ。

とはいえ、その感情が自分に全くないというわけではない。
でも、同じものを持っているからこそ、共鳴して増幅する、ということだってまたよくあることなのだ。

だからこそ、どこまでが相手のものなのかを感じ分けることが出来、なおかつ自分の感情は自分のものとして感じることが出来れば、ようやく分けて感じることが出来るので、共鳴して増幅するという作用は極めて低くなる。

今までどっぷりと浸っていたところから、どこからどこまでが「自分」なのかが分かり、自分と繋がり直すことができると、今までの荒波が嘘のように、どんどんと静かになっていった。

感じ分けると視えてくる真実がある

少し場面は変わるが、今まで私は、彼に抱きつかれたり、彼が私に甘えてくることに、なぜだかいつもイラついていた。

好きなはずなのに、触れ合うことでなぜこんなにもイラっとするのか、謎だった。

そこで私は、まず彼のエネルギーと自分のエネルギーを感じ分けてみた。
彼の持つ不安、ジメっとした感情…。同時に、やわらなな感覚や、私に身を委ねて安心してリラックスしている感覚…。

次に、これを私はどう感じているのか、を感じる。
やっぱりイラっとする。

だけど、このイライラ感は本当に自分のものだろうか。
すると、自分のものではなく、母のイライラを取り込んだんだという感覚がわかる。
私がまだ幼い頃、私がリラックスしているとき、母はイライラしていることがあったようだ。

大人になった今考えてみれば、無理もない。
赤ちゃんだった私は、抱かれている気持ちよさや、母のオーラフィールドに入っている安心感で、とてもリラックスしていただろうけれど、母親というものは常に忙しい。
赤ちゃん1人の世話をするだけでも大変なのに、旦那との関係や、家事など、他のことでイライラするような要素はどれだけでも出てくる。笑

一旦これが母のイライラだったことに気がついた私は、自分が取り込んでしまった母の怒りを自分のエネルギーフィールドからリリースしていく。
そうすると、すごーくまったりした気持ちになった。

あぁ、私はすごーくまったりしていたかった。

それに気がついたら、私に重たくのしかかる彼の体が、赤ちゃんのように(笑)安心しているのを感じ、私もまた安心してリラックスすることが出来た。

すると、ふと「触れたい」という気持ちが沸いた。それはとても自然に。

寝ている彼の髪を撫でると、汗ばんでいるけれど、とても柔らかかった。
アトピー肌の彼の手は、皮膚がとても薄く、繊細で、細い指がとても華奢に感じる。
触れて、どきどきするのって、いつぶりだろう。

今まで私はあまり男運が良いとは言い難く、男の人に対するイメージはどちらかというと最悪だったから、触れられるということに対する嫌悪感があった。

けれど、今目の前にいる相手を1人の人、今までの男性とはまた別の男性であるということを、今この瞬間感じると、自分の過去を超えていこうと思えた。

触れて感じたドキドキ感をないものとして、過去あった最悪な男たちとの記憶に浸りたいと思っていた私。
このドキドキ感に耐えて、自分を開いていくことの方が、よっぽど自分に対しての愛じゃないか。私自身が、自分が自分を超えていく強さを手放していたことに気がついた。

自分を愛そう。



愛ってなに?

そう絶望していた、あの頃の自分に、優しく触れて
いつか伝えられる日のために。


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