見出し画像

【雑談】90年代中期〜後期のサザン、桑田佳祐楽曲は音楽シーンに対するカウンターだった?

僕は音楽を年代で「評価」することは好きではないが、年代でシーンや楽曲を「考証」することは多いにアリだと考えている。シーンの変遷を辿ることで各ミュージシャンのシーンに対する考え方や楽曲の意図が見えてくるからだ。だからこそ、10年代音楽シーン年表をこのnoteで作成したし、それを基に10年代重要楽曲をピックアップした。

例えば、10年代の音楽シーンであれば、前半はKANA-BOONやグッドモーニングアメリカなどによる4つ打ちダンスロックの流行が顕著であったことに対し、後半はSuchmosやNulbarichによるシティポップや星野源やOfficial髭男dismによってブラックミュージックが流行していったことは上記した僕のnote記事の通りだ。ブラックミュージックの流行は、4つ打ちロックの流行・飽和に対し強固なリズム感のある楽曲が求められだしたことが理由と推察される。音楽に限らず、どんな流行にも明確な理由が存在する。ブラックミュージックは、4つ打ちロックの「カウンター」として広まった節も確かにあるのだ。

僕が意識的に音楽を聴きだしたのは06年、小学5年の冬だった。それもあって生まれて間もない90年代や音楽に触れだした00年代の邦楽シーンがどのような推移で変化していったのかはあまり知らない。なんとなく後追いで当時の宇多田ヒカル出現の衝撃やDragon Ashの革新性は知れど、それはリアルタイムで追うのとはまた違う。音源は聞けれど、どの音楽がどのタイミングで鳴らされていたのかをタイムライン化して考証することは結構難しい。(今度やってみるけど)

そんな中でも僕が、当時どういう推移で音源をリリースし、シーンに向かっていたのかを空で並べることの出来るミュージシャンが1組いる。

サザンオールスターズ。

78年デビュー彼らの出現が如何に衝撃的だったのか、想像はついても実際の空気感を94年生まれの僕は知らない。ただ、サザン/桑田ソロの音源リリースの推移とその裏で他のミュージシャンがリリースしヒットした曲を比べることくらいは出来るな、と思い、なんとなく考えてみた。

その答えが本記事のタイトルの示す「90年代中期〜後期のサザン、桑田佳祐楽曲は音楽シーンに対するカウンターだった?」である。ここからが本題。

90年代のサザンの時系列と、その年のヒット曲を列挙しながらこの論について考えていきたいと思う。

まず、90年代初めのサザンオールスターズと言えば「真夏の果実」「涙のキッス」など、いまでもサザンのスタンダード・ナンバーと言われるようなポップ色の強い楽曲を立て続けにリリースしていた時期である。

これは、サザン初めての活動休止、初めてのソロ活動を経てサザンの音源制作に携わり出した小林武史という、後のMr.Childrenやback numberのプロデューサーとなる人物の功績が大きい。彼がいたからこそ、サザンオールスターズはそれまで以上にポップスに振り切った楽曲をリリースできたし、サザンオールスターズ=ポップス、というライトリスナーが持つイメージを(良くも悪くも)立てることが出来たのだ。

92年の秋、サザンオールスターズは「世に万葉の花が咲くなり」というアルバムをリリース。ポップスを基調としながらもバラエティに富んだアレンジは、やはり小林武史による所が大きいアルバムとなったこのアルバムのリリース後、サザンオールスターズは活動を1度停止する。

サザンとしての活動が一旦停止した93年、桑田佳祐は2度目のソロ活動に入る。ここから、桑田佳祐が音楽シーンのカウンターとして動きだす。

桑田がソロ活動に突入した93~94年の音楽シーンと言えば、B'zやZARDなどのいわゆるバーニング系ミュージシャンやMr.Childrenのブレイクそして大ヒット、小沢健二やピチカート・ファイブなどの「渋谷系」が台頭したような時期だ。それまでは「歌謡曲」だった日本のポップスが本格的に「J-POP」として定着し、CDバブルによってガンガンCDが売れていた時期である。極めて華やかな、音楽シーンが活気付いていた時期と言えるだろう。

一方その最中に桑田がソロとしてリリースしたアルバムは「孤独の太陽」。

華やかな音楽シーンとは裏腹の、アンプラグドで地味とすら感じる音色が印象的な1枚だ。そしてその中身は極めて重たい。内向きな詞は桑田による桑田自身への批評だ。「漫画ドリーム」で「世は狂乱ホリディ」と自身も所属する「世間」をなじり、「月」で最愛の母の死と自身の孤独感を悲壮と共に歌いあげる様は、まさしく内向的であり、自身を対象とした批評とも言えるだろう。そんな「自身への批評」が彼のアイデンティティでもある「ミュージシャン」へと姿を変え、やがて「デフォルメされたドメスティックなミュージシャン批評」となってしまった結果が「すべての歌に懺悔しな!!」であり、この楽曲に起因する騒動だったと僕は考察する。いずれにしろ、世間がポップスで多幸感に溢れていた頃、ひとり自分自身と向き合い、ギターだけでロックを表現しようとしていた桑田が生み出した「孤独の太陽」が当時の音楽シーンにおいて異彩を放っていたことは想像に易く、シーンの流行に対するカウンターとなっていたはずだ。

そして95年。すっかりブレイクしたMr.Childrenとのコラボ楽曲「奇跡の地球」を挟み、サザンオールスターズは再び音楽シーンに姿を現す。その復活1発目にシングルリリースされた曲は「マンピーのG★SPOT」。

猥雑なタイトルと比喩表現が散りばめられた歌詞、そしてテレビ番組〜その後のライブにおける「ヅラ」演出は極めてユーモラスだが、サウンドはギターリフが印象的なロックだ。ここを起点にサザンオールスターズは、音楽シーンに対するカウンターとしての側面を強くしていく。

1995年から1997年辺りまでの音楽シーンとは言うと、小室サウンド全盛期である。H Jungle with T「WOR WAR TONIGHT ~時には起こせよムーブメント~」、TRF「CRAZY GONNA CRAZY」、華原朋美「I'm proud」、そして安室奈美恵「CAN YOU CELEBRATE?」。ヒット曲の裏には小室哲哉がいて、彼のシンセサイザーがあって、ダンスミュージックであった。そんな時代であったと推察する。

一方のサザンオールスターズは、96年にアルバム「Young Love」をリリース。

小林武史との離別でセルフプロデュースとなったサザンは、小室サウンドが流行する世間とは逆行し、バンドとしてのサウンドを突き詰めていく。1曲目の「胸いっぱいの愛と情熱をあなたへ」のイントロの軽快なギターリフや、表題曲でありビートルズ・ライクな「Young Love(青春の終わりに)」は、サザンオールスターズが改めてロックバンドであることを示唆する。「汚れた台所」「マリワナ伯爵」「Soul Bomber(21世紀の精神爆破魔)」はサザンがここまで意欲的に取り組んできた鋭い風刺を盛り込んだ詞と、ハードロック気味なバンドサウンドがより身体を振らせる。勿論ポップバンドとしての側面も確かにあり、「ドラマで始まる恋なのに」はその後の「TSUNAMI」の萌芽を感じる作風であるし、「あなただけを ~Summer Heartbreak~」「恋の歌を唄いましょう」は小林武史とのタッグを経たサザンだからこその作品であったが、やはり「当時のシーンとサザンの関係性」を考察する上で重要なのはこういったポップサウンドよりも上記したロックサウンドだろう。小室サウンドへのカウンターとしてのバンドサウンドを突き詰めた本作は、未だにサザンオールスターズのオリジナルアルバムとして最高の売上を誇っている。

97年から世紀末にかけての音楽シーンは新進気鋭のバンドの全盛期。GLAYやL'Arc~en~Cielなどのビジュアル系、JUDY AND MARYやEvery Little Thingなどの女性ボーカルポップバンドのブレイクやヒットがシーンのベースにあった。また、この年は宇多田ヒカルや椎名林檎、aikoや浜崎あゆみ、MISIAなど、その後の音楽シーンを牽引する女性シンガーが数多くデビューし、ブレイクした時期でもある。小室サウンドは落ち着き、バンドの大頭が目立ったモノの、やはりシーンの真ん中には「ポップス」が大きくドスンと据えられている。90年代の終わりの音楽シーンはそんな雰囲気であったと推察される。

では96年「Young Love」以降のサザンオールスターズはというと、4枚のシングルリリース後、98年にアルバム「さくら」をリリース。

そこには、世の売れ線バンドが目指していたポップ・ロックサウンドとは乖離した、重くドスの効いたプログレッシブでオルタナティブなロックの音がある。「Young Love」の1曲目「夢いっぱいの愛と情熱をあなたへ」のイントロが極めてキャッチーなギターリフであったことに対し、「さくら」の1曲目となった「NO-NO-YEAH/GO-GO-YEAH」のイントロはうねりを帯びて轟く重厚なギターリフだ。デジタルロックな出で立ちの「爆笑アイランド」、シングル音源と比べスケールも説得力も格段に増した「(The Return of)01MESSENGER~電子狂の唄~(Album Version)」、ハードロックと古文の融合が新たな感覚に誘う「CRY 哀 CRY」など、全編を通して重たいロックバンド・サウンドが中心となったアルバムだ。前作「Young Love」も「さくら」と同じくロックサウンドを志向していたアルバムであったが、ベースにはあくまでも「ポップ、キャッチー」が存在していた。一方で「さくら」の制作には徹底して「骨太なロックバンド」という志向があり、「ポップ」や「キャッチー」はそこに寄り添う付け合せのような出で立ちである。「LOVE AFFAIR~秘密のデート~」や「湘南September」などはその好例だ。ポップでキャッチーな名曲である反面、このアルバムにおいては陰の薄い存在だろう。世のロックバンドと呼ばれる者たちがポップサウンドを目指していた頃、ロックバンドというイメージを持たれにくいサザンがハードロックやプログレッシブ・ロックを目指していた、というのは皮肉めいているようで、同時にやはり当時のサザンが如何にシーンのカウンターであったかが分かる。

「Young Love」から「さくら」期におけるサザンオールスターズが音楽シーンのカウンターであった一方、その代償は彼らを蝕む。250万枚近いセールスを叩き出した「Young Love」に対して「さくら」のセールスは100万枚に届かず、サザンオールスターズのハードロック路線は世間にウケなかった事が証明されてしまった。リリース後の99年、宇多田ヒカルがリリースしたアルバム「First Love」が圧倒的なヒットと共に音楽シーンに金字塔を打ち立てたのと同じ頃、サザンオールスターズは「イエローマン~星の王子様~」をリリース。

「さくら」のハードロック志向を踏まえ、その文脈をシングル曲に取り入れてリリースされた、ロックバンド・サザンオールスターズとしての会心の一撃だったが、セールスとしてはサザン史上最低の売上を記録する。

そして、2000年。サザンオールスターズは「TSUNAMI」をリリースし、一転して国民的バンドとしての名声を勝ち取る。

「いとしのエリー」のような「コミックバンドだと思ってたバンドが!」みたいなインパクトでヒットした訳でもなく、「真夏の果実」のような小林武史の後ろ盾もなく制作されたこの曲が「J-POP」として改めてヒットしたことは、ポップシンガーとしての桑田佳祐の才能がハッキリと世間に認められた瞬間でもあったように思う。一方、この機を境にサザンのサウンドは保守的な方向に向かい、90年代中期〜後期のようなシーンに対するカウンターとしての役割を担うことは無くなった。大ヒットナンバー「TSUNAMI」のカップリングであった「通りゃんせ」がサザン最後のハードロック路線となったことは皮肉的である。

当時の桑田佳祐やサザンオールスターズのメンバーがシーンという大きな体制に対して反旗を翻そうとしていた、かどうかには議論の余地があるが、少なからず彼らの作った作品は結果としてシーンを批評していたと共にシーンのカウンターで有り続けていたように思う。90年代という「歌謡曲」が「J-POP」となり、商業性が加速した頃、桑田はアコースティック、ポップロック、ハードロックと変遷を重ねながら鋭さを増していたのだ。サザンオールスターズをポップバンドと思っている人にこそ、この時期のアルバムを是非聞いてほしいと思う。

とはいえ、「ヒット曲」=「シーン」では無い。ヒットしなかったけれどシーンにおいて重要だった曲、というものは確かに存在する。日本において、ヒット曲は数字として残るからこそ今でもこうして辿ることが出来るが、ヒットしなかった曲までも深く追うのは難しい面も確かにある。だからこそ、リアルタイムで追う音楽やシーンは過去の曲を追うのとはまた違った楽しさがある。是非とも今の音楽と音楽シーンを追い続けてほしい。

社会人の傍ら、ライターを目指して奮闘中。サポート頂けたら励みになります。ライター活動の資金にさせていただきます。