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愛も評価も、エゴならいらない

蔦谷書店を徘徊していて、
「他人の目が気になる人へ」という本が気になって手に取った。

ペラペラめくっていると、

評価には決め付け押しつけという暴力性がある
評価は一時的、主観的なもの

という言葉があった。

他人の評価とは、こちらの事情を何も考えていない、だから暴力性がある。
たとえ良い評価だとしてもそれは一緒だ。

評価に対してその認識を持っていれば、他人の目を気にしなくなるものだと。

やっぱり評価されることは怖い

昨日はちょうど、"評価“される日だった。(会社の評価面談)
「評価されていないと思い込むと落ち込む、そして期待されることは嬉しい」というようなことをnoteに書いたのもあり、上記の言葉はすごくハッとした。

「評価のために働いてるわけじゃないけども」とは言いながらも、
まだどこか、「人の評価」を気にして生きている気がする。
(もちろん目標に対しての評価ではなく、もう少し自分のソフト面に対する定性的な評価のことである)

ただ、

一時的、主観的。

そう聞くと、気にすべきことではないな、と冷静に思えてきた自分もいた。

こと仕事においては、「一時的にでも、マネージャーが主観で考えて素晴らしいと思える状態」に持っていくことさえできれば、お給料は上がる。
どうしても評価されている、監視されている、という
状態が気持ち悪いときがあるのだが、
そうやってフラットに考えれば、自然体でいられそうだ。

愛と評価

冒頭の言葉を読んで、私はこの曲を思い出した。


C-uteのSummer Wind。(どんな話も紐づけるハロオタ)

押し付け
締め付け
全部、愛じゃないエゴだよ

この歌詞を見ると、
さっきのと同じ話をしているじゃないか…と。

「私のことなんてちっとも考えてくれていない。
押し付けに感じる…そんなの愛じゃない。」
この歌詞ってそういうことですよね。

つまり、愛も評価も同じじゃないか。

外部から私になんらかの矢印が向くとき、
私はそれを気にする。
それには、"私のため"のもの、"相手のため(エゴ)"のものがある。
愛には敏感だから分かるのだよね、私のためのものだけ受け取りたいのだよね。

その感覚を大事にしよう。
私のためのものではないならば、受け取る必要はないではないか。

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