【旅行記】微魔女の微ミョーな旅・30
5.ウズベキスタンー2019年
広大な砂漠に思いをはせる
さて、憧れの“青の都”はたしかに素晴らしいのだが、期待が大き過ぎた分ガツンとくるような衝撃がなく、トシのせいなのか観光客が多過ぎるせいなのか、それとも本家のイランを見てしまったせいなのか……。消化しきれないものを抱えながら、途中ティムールの出生地であるシャフリサーブスに寄りながら、4日目はブハラへの7時間のドライブとなった。
車中、長時間フライト直後のアミィと、年齢的に疲れも見えるモリーはバンの最後尾で爆睡。私は本を読んだり、うとうとしたり、まったく眠らないジュリーのおしゃべりに付き合ったり……。本はちょうど中央アジア史を読んでいたので、そのまさにど真ん中で史実を読む贅沢を実感する。まるでパエリアを食べにスペインへ、ピザを食べにイタリアへ来ているような気分だ。そして時空を超えて、車窓を流れる広大なステップ砂漠に思いをはせる。
「なぜ、中央アジアの発展は止まってしまったのだろう?」
かつてサマルカンドの街があったという、アフラシャブの丘に近いウルグベク天文台跡からアフラシャブ博物館に行ったときに感じたことだった。20世紀初頭に土のなかから発見されたという、巨大な観測計・六分儀の地下部分。ティムール帝国の4代目君主(ティムールの孫)で天文学者、数学者、文人であったウルグ・べクが15世紀に建設したとされている。天体望遠鏡もない時代に、1年が365日であることを割り出し、星の軌跡を観測して天文表を作り、天文台にはペルシアなどから有名な学者も集められたという。博物館にはアフラシャブの丘の全体模型、7世紀の領主の宮殿から発見されたという、ソグド人を描いた大きなフレスコの壁画を見るにつけても、かつてのシルクロード、東西文化の交差地点でもあるこの国が、なぜ、今はGDP500億程度、未だに20パーセント近いインフレ率に苦しまなくてはならないのか。ソ連統治のせい? カリモフの独裁政権のせい?
「見て見て、綿花よ。綿花の収穫よ」
舗装が行き届いてない道路の両側に、時折綿花畑が広がる。ジュリーに教えられるまで枯れ枝の畑かと思っていた。生まれて初めて見る綿花の畑に、生まれて初めて見る白い綿花の収穫。ウズベキスタンは世界でも有数の綿花生産国なのだから、完全に機械化されていそうなものなのに、手作業のなんとものどかな風景が広がる。
ブハラに着いたのは日も暮れかけるころで、ランチを食べる間もなくドライブをつづけたので、誰もが明らかにへとへとだった。迎えてくれたツアーガイドのリリーが歩き出したときには、まさかこれから市内ツアーだとは思ってもいなかった。しかも昼間の服装のままなので、サンダル履きの足先からぐんぐん冷気が這い上がってくる。ウズベキスタンは大陸性気候なので、昼夜の寒暖差が激しく、昼間は半袖・短パンでうっすら汗をかきながら歩き回っていても、一旦太陽が傾き始めるとあっという間に寒くなる。
「ねえ、何時に解散なの?」
「さぁ? 疲れたわよね」
ほかの二人は大丈夫なのだろうか。とくにモリーが心配なのだが何も言わない。さっき、ホテルまで歩いているとき、スーツケースにバックパックを背負い、更に大きなショルダーバッグを下げて、でこぼこ道で皆から遅れを取っているモリーを手伝おうとそばへ行くと、もの凄い勢いで断られた。いつもは穏やかに微笑んでいるモリーに、まるで大きなお世話だとでもいうように声高に断わられた。年寄扱いするなということなのかな、と納得しながらも驚いたことを思い出す。
「今日のツアーは何時に終わるの?」
「私たち、今日はロングドライブでお昼も食べていないし疲れていて……」
ジュリーが援護射撃をしてくれたおかげで、めでたくその場で解散になった。
ブハラの街は新市街と旧市街に分かれていて、私のホテルは新市街にある幹線道路に面している。市中の大きな道路はどこの都市へ行っても工事中で、ブハラはホテルかアパートの高層建設の現場が多い。また、ブハラにはユダヤ人居住区(中央アジアにはブハラユダヤ人というユダヤ教徒がいた)があり、かつてのユダヤ人富豪のお屋敷跡はB&Bやレストランになっていて、私のブハラ2泊目のゲストハウスも居住区に位置していた。
翌日は、ラビハウズという旧市街の中心にある池を起点に、メドレセ、モスク、廟、城砦を巡り、ランチはユダヤ商人の元お屋敷で民族舞踊を見ながらウズベキスタン料理を食べ、バザールで買い物が終わるころには日も暮れ、ラビハウズ前のナディール・デイヴァンベギ・メドレセに戻り、シナゴーグへ行くというモリー以外の3人は中庭で民族舞踊のショーを見ながらお茶をした。
今夜は初めてのゲストハウス泊。2階建ての建物が取り囲む中庭がダイニングになっている。朝、荷物を置きに来たとき、朝食を勧めてくれたり、Wi-fiのパスワードを教えてくれたりと親切だった。そして一階奥の角部屋に入って、自分が実はわりと贅沢な旅行をしてきたことに気づいた。
いつもはホテルに着くと、まずは室内写真を撮ってからWi-fiをつなぎテレビを点け、備え付けのコーヒーセットで一服しながらメッセージをチェックする。それから荷物を広げ、洗面道具を置いて服を着替え、洗濯をし終わったら夕飯を食べながら街の散策に出る。ところが今日は、写真を撮ってWi-fiをつなげてテレビを点けたら、外出以外にできることがない。コーヒーセットがない、荷物と洗面道具を広げる場所がない、ベッド以外に座る場所がない、洗濯しても干す場所がない。窓が中庭に面しているので、採光のためにカーテンを開けておくと室内も外も丸見えで落ち着かない。シャワーと洗面台はカーテン一枚なので浴室内は水浸し。清潔ではあるが、長居をすると見たくないものまで見つけてしまいそうなので、さっさと外出することにした。
昼間、リリーがコーヒーが美味しいと話していたカフェに入ろうとすると、モリーの姿が見えた。
「一緒にいい?」
「もちろんよ」
彼女はちょうど、デザートに取り掛かったところだった。一口もらうと、飾り気のない外見に反して、何層にもなった生地とクリームからしっかりと素材の味がして美味しい。ハニーケーキというそうで、メルボルンに戻ってから早速レシピを探してみると、起源はロシアで、中央アジアではいろいろなアレンジがあるらしいことがわかった。そして美味しさの秘密が、どうやらサワークリームにあることも見つけた。
ウズベキスタンのお菓子、とくに焼き菓子が美味しいのは意外な発見だった。
少し大きなスーパーへ行くと、いろいろなケーキがケースに入ってピースで売られている。デコレーション系はバタークリームを使っているのでくどく、飾りも洗練されてはいないが、ペストリーや粉系のケーキは小麦粉の風味があって美味しい。また、キャンディーやチョコレート、ビスケットは壁面いっぱいに量り売りで並んでいる。パッケージに入ったものはロシアなどの周辺国からの輸入品が多いようで値段は量り売りよりもかなり高い。どちらも美味しいのだが、とくに量り売りの方はどれも小麦粉、乳製品の味がしっかりして手作りビスケットのような味がする。
食事の前後には必ずドライフルーツやナッツが出され、干しブドウは軸が付いたままの大振りで、干してあるのにみずみずしく肉厚で甘く味が濃厚だった。イスラム系の国で嬉しいのは、朝食のバイキングに必ず一口サイズのチョコレート、ケーキ、ぺストリーなどのお菓子が並んでいることで、日本の“おめざ”と同じ意味合いがあるのかもしれない。
食事で食べるパン(オビ・ナン)にしても、地域によって形や模様が違い、タシュケントは大きくて甘味があり、ブハラは薄めで、どちらも真ん中が凹んでいてスタンプで押した模様が付いている。サマルカンドは小さくて厚みがあり、ヒヴァへ行くとピザ生地のように薄くなる。それぞれ、テーブルに1~2個が置かれ、皆でシェアをする。
モリーとはユダヤ教の話から、メルボルンにもユダヤ人の大きなコミュニティーやシナゴーグがあること、昔イスラエルのキブツで生活してみたかったこと、生きているうちにいつかは行きたい国の一つだということなどを話した。彼女はハンガリーではエンジニアをしていて、夫と共に政治難民としてアメリカに渡り、夫が死んでからキャリアチェンジをしたと言っていた。イスラエルは危険なところだと思われているが、古いものと新しいもの、ショッピングセンターもビーチもあり、なかに入ればアメリカと変わらない平和な先進国だという。モリー自身も数年に一度、イスラエルに住む親戚や友達に会いに訪れるのだそうだ。
行く先々で、まずはシナゴーグの場所をガイドに確認しているモリ―を見ていると、改めて流浪の民、ユダヤ人・ユダヤ教徒の底力を感じさせられる。
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