才能は翼ー『リズと青い鳥』の進路問題

 映画『リズと青い鳥』は、才能が進路を決めることを描く残酷な映画だ。高校三年生の「のぞみ」と「みぞれ」は、ともに所属する吹奏楽部で、少女リズと彼女が助けた青い鳥の物語を元にした楽曲「リズと青い鳥」を演奏することになるが、最初は、快活で自由に振る舞う颯爽とした少女であるのぞみが青い鳥で、彼女に憧れるマイペースな少女で、のぞみに執着し依存しているみぞれがリズであると、自分たち自身も観客も二人と作中作を重ね合わせる。見た目ものぞみは短髪でボーイッシュ、みぞれは黒髪のロングで大人しい少女に見える。演奏の練習でも最初は要領のよいのぞみの方が問題なく巧みに演奏し、不器用なみぞれはなかなかうまく演奏することができない。一方で、二人は進路について決定する時期に来ているが、みぞれはのぞみが希望しているからという、まったく非主体的な理由で、音大を志望する。

 ここまでは、のぞみが主体的な人物で、みぞれは受け身な人物であると観客は錯覚するが、物語が進むにしたがって、事態は逆転する。のぞみは器用なタイプではなく、最初は「リズと青い鳥」における登場人物の心情をうまく解釈できず、迷いが出て、演奏もうまくできなかったが、図書室で「リズと青い鳥」の文庫本を借りると、図書委員に「他に借りたい人もいると思うんですけど」と苦言を言われるほど延滞を繰り返して、何度も物語を読み直し、自分とのぞみの関係を物語に重ねながら、長い時間をかけて深く考え続ける。そして、だからこそ答えにたどり着いたときには聴く者の胸を打つ演奏ができる。不器用でいつまでも思い悩むみぞれの「欠点」は、実はみぞれの才能なのだ。一方で、のぞみの方はといえば、物語の解釈について、青い鳥は一度飛び去ったとしても、「また会いに来ればいいと思うんだよねー」と軽い調子で言ってしまう。これでは深い演奏などできるわけがない。あれこれ思い悩む受動的な性格であるがゆえに、時間をかけてじっくり考えながら、自分が納得できる解釈にたどり着くまで粘り強く物語を読み、物語の核心を掴み取ることができるみぞれの力は、実は演奏家にとって極めて重要な才能だったのだ。

 そして、のぞみは実はもともとみぞれが音楽の才能に恵まれていることに気づいている。吹奏楽部の顧問の新山先生は、みぞれには音大に進学することを勧めるが、のぞみが音大を受けたいんですと相談しに行くと、そっけない態度で話を受け流す。新山先生は、みぞれは才能に恵まれているが、のぞみには音楽の才能がないことを知っているのだ。新山先生は、全ての生徒に公平に接する先生ではなく、悪く言えば依怙贔屓する先生、良く言えば生徒の個性に従って指導する先生であり、才能があると認めたみぞれには音大進学を勧め、楽曲を解釈しようとするみぞれにアドバイスを与えるが、のぞみに対してアドバイスをすることはない。しかし、新山先生の態度は芸術家としては当然の態度であり、責めることはできない。才能は残酷だ。のぞみはみぞれとの才能の差に気づいており、嫉妬し、プライドを傷つけられ、深く傷ついてきたはずだ。

 かくして、この物語において、広い空へと飛んでいく青い鳥は、一見、快活で颯爽としたのぞみではなく、不器用で鈍臭いが、粘り強く集中して一つのことに取り組むことができるみぞれの方だった、という逆転が生じる。みぞれは自分を誘ってくれたにもかかわらず、吹奏楽部を一度辞めてしまったのぞみに対して、自分は振り回されていると感じていたが、実はのぞみもまたみぞれの才能に対して、憧れや羨望、劣等感や嫉妬の感情を抱いており、そのことがのぞみの行動に影響を与えていたことが明らかとなる。終盤、お互いの好きなところを言い合う場面で、みぞれがのぞみの色んなところが好きだと言う一方で、のぞみは「みぞれのオーボエが好き」とだけ言う。のぞみは音楽の世界に強い憧れを持ち、みぞれの音楽の才能に憧れとそれの裏返しとしてのコンプレックスを抱いていたのだ。のぞみが近づいたり距離を取ったりしてみぞれを振り回しているのはそのためであり、みぞれは、のぞみのそうした態度のために、自分が見捨てられるのではないか、という不安を抱いたのだ。

 練習の演奏において、楽曲の核心を掴んだみぞれが圧倒的な演奏を披露すると、のぞみは改めて圧倒的な彼我の才能の差に打ちのめされ、音大への進学を断念し、部活の練習より、図書室での一般受験用の受験勉強に時間を割くようになり、気持ちを切り替える。一方で、みぞれが部活の練習に向かう姿が描かれるだけに、この場面は残酷である。自分には才能がないのだと自覚した高校生の少女が、芸術への淡い憧れを諦める場面だからだ。

 ところで、筆者の職業は高校教員であり、高校二年生のクラスの担任として、まさに音大に進学するのか、普通大学の文系学部に進学するのか深く悩む生徒の進路相談に乗っていたことがある。この生徒のピアノ演奏は、技術的には突出してレベルが高いというわけではないが、内に秘めた激しい感情や音楽への深い愛が伝わってきて、不思議に聴く者の胸を打つ演奏であった。音楽教師に聴くと、今は音大は生徒不足に陥っており、入試に合格するのは難しいわけではない。しかし、周りは自分よりも技術レベルが高い学生たちばかりだから、そこで心が折れる可能性がある。就職については、もちろんプロは狭き門だが、プロの演奏家だけが音楽に関わる仕事ではなく、入学して大学で四年間過ごすうちに、音楽に関わる様々な仕事があることが見えてくるのではないか。好きなことをやっている方が生き生き輝いているタイプだと思うし、好きなことに打ち込んでいるうちに、社会で生きていくための様々な力が身に付くのではないか。周りのレベルの高い学生たちのことを気にせず、自分は自分とマイペースで大学生活送っていけるなら、音大進学はありえない選択肢ではない。おおよそそんなような意見だった。

 これはとても納得の行く意見だと思ったし、ぼくも生徒の背中を後押しする方向で声がけしていたのだけど、どうなのだろうか。『リズと青い鳥』の過酷さに比べればずいぶんゆるいように感じるかもしれないが、「好き」というのも一つの才能だ。のぞみも才能がなくても、音楽が本当に好きなら、みぞれのことなど気にかけないようにして、音大に進学すればよかったと思うけれど、結局、そこまで本当には音楽が好きなわけではなかったのかもしれない。ジラールは『欲望の現象学』において「欲望とは他者の欲望の模倣である」と看破したが、『リズと青い鳥』において、みぞれの音楽への欲望は、のぞみの欲望を媒介としながら、やがて模倣に留まらない、本物の欲望へと血肉化(=身体化)している。現代の学校においては、一時代前の教師のように、お前には無理だからと生徒の夢を諦めさせるような者はいない。生徒の意志を尊重する方向性で、生徒の夢を実現するにはどうすればいいかを一緒に考えてあげるのが、現代の基本的な進路指導だ。しかし、「好きなことをやっていい」社会において、「好きなもの」(=欲望)が見つからない者は、空を飛ぶことができない。欲望が欲望される時代において、才能は翼であり、欲望は翼なのだ。

  しかし、では、翼を折られた者はどうすればいいのだろうか。教師として、また、自分自身の問題として、一見、気持ちを一瞬でさっと切り替えることができてかっこいいが、みぞれの前でそのように見せかけているだけで、実際には全然そんな風ではないことが明らかなのぞみが、この後どのようにして生きていくのかが気にかかる。

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