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ショートショート 出刃包丁関孫六「蕃茄の切初め」(ショートショート100 No.41「岐阜県関市」1,429文字)

 一足ばかり早い春のお話。
 初めての社会人、初めての一人暮らし。春は初めて尽くし。初々しい季節でございます。
 小さなワンルーム。一畳にもみたない台所。買ったばかりのプラスチックのまな板とボウルが置いてございます。いずれも近くのスーパーで買い揃えたもの。

 台所に立つ一人の若い女性。仮に小春さんといたしましょうか。小春さんがいそいそと野菜を洗っております。初めての自炊。まずは簡単なサラダでもと買ってきたレタス、きゅうり、トマト。

 小春さんの様子を見たまな板たち、ついつい愚痴をこぼします。
「おいおいおい。ボウル。」
「なんだい、まな板。」
「ついに洗い出したよ。野菜。」
「そうだねえ。あれは、サラダだね。」
「サラダだ。けど、まあ、素人だ。選択がよくない。」
「よくない? 何が?」
「レタスはちぎりゃあいいよ。素人向きだ。きゅうりもなんとなるだろう。だが、あれだ。トマトはよくない。」
「よくない?」
「サラダだろ? 薄く切るつもりだ。よくて8つに櫛切り。素人だよ? しかも道具にこだわりがない。」
「俺たち買ってくるぐらいだからな。」
「うるせえよ。素人がトマト切ったら、つぶれるさ。べちゃっとな。せっかくのサラダがぐちゃぐちゃだ。」

 まな板の嘲笑いなど露知らず、小春さん、実家の母親からもらったこぶりの箱を取り出す。母親が一人暮らしの娘のために送った新生活へのお祝いでございます。
「あの箱は。」
思わずまな板が声を出します。

 箱を開けて姿を現したのは、曇り一つない出刃包丁、三本杉の乱れ焼き、和泉守兼定と風流にも肩を並べる刀剣乱舞、太郎太刀でその名を知られる朝倉方の真柄十郎さえも切ったと言われる名刀の末裔。広い日本のど真ん中、美濃国は岐阜県関市の誇る名産品、包丁といえばこれという、天下に名だたる「関の孫六」でございます。

 小春さん、洗ったばかりのきゅうりをまな板の上に置きまして、ぎらり、と出刃をきらめかしますと、すとととん、と小気味よく小口切り。
「切れる!」ボウルが声を上げます。
 その切り口の、まあ、みずみずしいこと。濃い緑色に囲まれた薄い緑の丸も美しく、切れたきゅうりをさーっとボウルにあける。レタスをちぎる。そしてついにトマトに手をかけます。
「まさかまさかまさか。」
トマトをのせられたまな板の震え声。

 料理が初めての小春さん。さすがに少し緊張したのでしょう。少しため息をつきまして、軽く深呼吸をいたしました。トマトのヘタの方を下におきまして、左手を軽くそえる。そして包丁を、すっと、引きます。

 すらり。

 流石に関の孫六。薄いトマトの皮が、やぶれることなく、すーっと、見事に切れていきました。柔らかい身から、赤い汁の一滴もでない。目の覚めるような鋭い切り口でございます。

「お見事!」
皮肉屋のまな板が、感嘆の声をあげました。
 小春さん、いそいそと買ったばかりの真っ白なお皿を持ってきます。ちぎったレタスの上にきゅうりを並べ、さらに真っ赤なトマトを盛ります。「上出来!」興奮した小春さんの顔も赤くなりました。

 小さな机にお皿を運んで、フォークはまだ買っておりません。割り箸でサラダをつまんで、一口。

「あ。ドレッシング買うの忘れた。」

 流石の名刀関孫六も、味付けばかりはどうにもなりません。しかしこのサラダを皮切りに小春さんめきめきと料理の腕をあげ、母にもらった関孫六を相棒に、ついには銀座の一等地にレストランを開くまでになるのですが……今日はこれでお時間といたします。

※「蕃茄」はトマトの和名です。

ショートショート No.253

NNさんの企画「100のシリーズ」に参加しています。
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