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エッセイ 踏みしめるのは自分の足で(『未踏』ほか 感想)

 漫画「大白小蟹短編集 うみべのストーブ」を読んだ。大学卒業後、小説を書かなく(書けなく)なった女性を描いた「海の底から」に感じるところがあった。

 忘年会の集まりで、大学の友人たち二人がフリーライターやフリーターをしながら、歌集を出したり、文学賞の最終候補に残ったりしている近況を聞きながら、『仕事を一生懸命やっている』という評価の主人公(桃)は二人にこう言われる。

「桃はほんとすごいよ ちゃんと就職してバリバリ働いて 地に足つけてしっかり生きてるんだもん」

「うみべのストーブ」より「海の底から」

 自分についてになってしまうが、今まで何度も何度もこの類のことを言われてきている。本当に、何度も何度も。恥ずかしいことに、その度に胸が痛む。「浮かぶ」ことのできない自分、浮かぶための才能や勇気のない自分を強烈に情けなく思うのだ。
 主人公も少なからずそんな気持ちを持っているのがコマや独白から予想されるけれど、主人公は自分の才能に悩む友人を慰め、勇気づける。強い人だと思う。
 忘年会の帰り、恋人が迎えにきていて、二人で帰る。「幸せだ」と思う主人公はさらにこう思う。

切実に書くべきことが 何もない
悔しい 書かなくても幸せで居られるのが

「うみべのストーブ」より「海の底から」

 実のところ、私自身はそう思ったことはない。「書かなくても幸せならそれでいいんじゃないないの?」とすら思う。実際、何らかの不幸(欠落と言ってもいいかもしれない)を抱えてものを書き始める人は多いと思う。そして、書くことがなくなる人も多く見かける。でもちょっと待ってほしい。この理屈が通るならば、何か書いている人はみんな強烈に不幸でなくてはいけなくなる。それってなんだろう。作品は不幸の見本市ではないはずだ。

「書けなくなりました」「書くことがない」「書かなきゃ」。noteでも他のSNSでもそうした文字はよく見かける。私もたまに言ってしまうかもしれない。書くことがないなら、書かなくてもいいのではないだろうか、と正直言うと思ってしまう。人は何かを書くために生きているわけではないし、書いたところで何かものすごくいいことが待っているわけでもない。やりたくないなら、やらなくてもいい。

「海の底から」に戻ると、主人公の悩みに恋人がこう答える。

「じゃあ書けばいいんじゃない?
 悔しいってことは桃は書いていない自分のこと認められてないじゃん
 それはつまり書きたいってことでしょ?」

「うみべのストーブ」より「海の底から」

 ああそうか。そうなのかもしれない。自分にはなかった答えだな、と思った。「書きたいことがなくなった」に対しても、この恋人は答えを提供してくれるが、そこはこの漫画を読む方のために残しておくことにして、こうした、日常生活に新しい光を与えてくれるような物語が、私は非常に好きである。実際、帯の宣伝文句にもこうある。

期待の新鋭、大白小蟹(おおしろこがに)・初単行本。
生活から生まれた絵とことばが織りなす、珠玉の7編。

「うみべのストーブ」帯

 そうか。こういうのが「生活から生まれた」なんだな、と改めて思った。

 私は多分「生活から生まれた」文章が好きだ。「生活」は多分「社会」とか「思想」とか、ひょっとしたら「幻想」なんかと比べるための言葉だと思う。こと「社会」に関して言えば、自分は「生活」ばかり書いて「社会」をあんまり書かない。理由は少しわかっている。

 昔、私は兄弟から毎晩のように一方的な暴力を受けて暮らしていた。まあ、なんていうか、暴力をする人はする人なりの何らかの理由があったのだろう。その兄弟が、ある日突然、家族に宣言したのである。
「自分は、海外の恵まれない子供を助けるためのボランティアに参加したい」
 びっくりした。『ここ』の恵まれない子どもは? と全力で思った。それから兄弟は、ボランティアがいかに必要かを語った気がするが、私自身は何一つ理解することができなかった。ただ、この人が海外に出て殴られる子どもが増えるよりは、ここに止まってもらってここの一人で済ませてくれた方が世界平和に貢献する、と思ったくらいである。

 私は、物語は世界を変える力があると思う。でもそれは、読んだ人の(内面)世界を変える、という意味である。読み手の、ましてや書き手の周りの(外面)世界を変える、という意味ではない。文学によって世界が変わる、と言うのはあくまで、内面世界が変わった人が行動して徐々に外の世界が形作られていくことによって起こるもので、いきなり外面が変わるという意味ではない。さっきの話に戻ると、兄弟の内面世界が変わっていないのに、世界を変えるも何もない、というか、「社会」についての兄弟の認識の変化が、兄弟自身の内面を全く変えていないらしいことへの絶望というか、要するになんかちょっと信用できないと感じたのだと思う。

 以前読んだ「生活の批評誌 no.5『そのまま書く』のよりよいこじらせ方」にあった「『自分語り』をさまよって」というインタビュー記事に言語化についての言説があった。

依田(※依田那美紀 引用者注):他人の言葉に自分を仮託しなくてよくなった?
滝(※滝薫 引用者注):そうそう。だからさ、”サボるな”って思うんだよね。自分の気持ちを、己でちゃんと噛み砕くことをサボるなって。誰かの文章に対する反応として「まさに自分が思っていた事を言語化してくれた!」みたいな言葉ってよく見るじゃん? 血肉から絞り出した文章に救われることは確かにあるんだけど、私は他人の言葉を崇めることで自分について自分自身で言葉にすることをサボりたくないなって思うんだよね。それが、書くことを「言語化が上手い人」だけのものにさせないための私なりの方法なんだと思う。

「生活の批評誌 no.5『そのまま書く』のよりよいこじらせ方」より「『自分語り』をさまよって」

 あまり普段言えないことだけれど、「まさに自分が思っていた事を言語化してくれた!」と思ったことは、私自身はほとんどない。もしかしたら、ないかもしれない。「あ? それ、こうだろうか…」みたいなことはあるかもしれないけれど、そんなにズバッとストレートに入ることなんてあるんだろうか。たとえば「海辺のストーブ」の話に戻れば、「悔しいは、書きたいってこと」がズバリ刺さるには、この答えをあらかじめ持っている必要があるんじゃないだろうか。そしてその答えがオリジナルであればあるほど、自分の思いと誰かの表現はズレる気がする。

 「生活」について書いたもの、と言えば、未踏編集部「未踏」の冒頭、”はじめに”はこんな文章で始まる。

あくまで自分のため
そこにある生活から滲むように生まれてくるもの
ひとりごとのような、走り書きのメモのような、気が向いた時に書く日記のような。
私たちが今読みたいのは、そのような作品たちでした。

「未踏」

 「書きたいのは」ではなく「読みたいのは」なのは何でだろう。正月の間、帰る実家もなかった私は、一日中本を読んだり書き写したりしていた。戦争の本、震災の本、ビジネスの本、暮らしの雑誌、料理の仕方。眠くなるまでそれを繰り返しても、実のところ、椅子から立ち上がったら何にも変わっていなくて、しまったな…と思いながらレンジで餅を温めてようやく目の前に食事を出現させることができた。絶望するほど何も進んでいなくて、嫌になる程だ。調べても調べても、分からないことばかり増える。

 「未踏」の編集者たちの座談会的な記事にこんなことが書いてあった。

 それで言うと、宝塚のコラムでやろうとしてたことは「二次創作」なんだよね。事後的な話だけど、『未踏』に集まった作品って「一次創作」のものばかりじゃない?

「未踏」より「編集航記」

 ここで言う「一次創作」は「何かのコンテンツについての話ではない」というほどの意味だと思う。つまり、自分の体験した、一次情報から書いたもの、ということだ。それは「生活の批評誌」の中で引用した「自分自身で言葉にする」ものに通じるものがあると思う。思想や歴史、評論、複雑な物語は必ずといっていいほど、過去の何かを下敷きにしているものだ。つまり、二次創作である。「生活」の話を読みたいというのは、誰かの話についてではなく、あなたを知りたいということで、どこかの立派な言葉を崇めたいわけじゃない、ということでもあるんじゃないだろうか。

 世界を変えるのは、私やあなたの生活である。私はきっと、そう思っている。私やあなたの生活自体が世界であり、社会なのだから、それは当たり前なのだけど。どんな立派な理論や理想も、生活まで落とし込まないと私たちは動けないし、きっと何かを変えられない。文章は内面を変えるのは得意だけど外面はそうでもないと思う。お腹が空いた時にいるのは本ではなくご飯だし、ご飯を買うにはお金がいる。お金を稼ぐなら部屋を出て働きに出なくちゃならない。少なくとも、私はそう。その代わり、ご飯が私の内面を変えることは滅多にない。どちらが優れているなんてことはなくて、得意なことが違うだけだと思う。

 何かを変えられないとしたら、変えられないのは文学ではなくて、文学を持った、生活者としての、労働者としての、あるいは消費者としての私たちだ。そして私たちを変えるのは、あるいは私たちが実際に行えるのは、呆れるほど地道で平凡な、毎日の生活だけだと思う。

 そう。だから、私は「生活」について読むのが好きで、書くのが好きだ。毎日一歩一歩、自分の足で考えて、歩いていきたいと思う。どこにたどり着くかは、分からないのだけど。

エッセイ No.100

  埼玉にある本屋さん「つまずく本屋ホォル」さんの「定期便」をとっています。毎月一冊、店の方が選んだ本が小さな紹介文つきで届くしくみです。どんな本が届くのかな、と楽しみにしながら、先月以前に届いた本の感想をこっそり言うエッセイです。

エッセイに登場した本

うみべのストーブ 大白小蟹短編集

大白小蟹オオシロコガニ(著/文 | イラスト) 2022.12 リイド社

「生活の本」として紹介してしまいましたが、ファンタジー要素の強い本でもあります。ものすごい空想、というのではなく、ほんの少し足が浮いた、くらいのファンタジーです。でも私たちの「現実」の認識って、このくらい少し浮いているんじゃないかと思う。私はそうです。上手く言えなくて、私はまたしばらく、ずっとずっとそのことについて考えるのでしょう。

生活の批評誌no.5「そのまま書く」のよりよいこじらせ方

企画・編集・DTP:依田那美紀 2022.5

「「生活」と「批評」。その2つを隣り合わせにすることで軽く前向きに流される日常に抵抗する批評同人誌です。」とリンク先にあります。実は「批評」の雑誌であることはよく分からずに買い求めました。(どちらかというと「生活」の雑誌だと思っていた)「批評」よりだな、と思うのは、きっと私が生活に流されているせいなんだと思います。座談会の記事が面白かったです。

文藝集 「未踏」
未踏編集部(有賀みずき・則本賢佑・松本奈美)編 2022.11

「夜と朝」というテーマで友人26名の作品を収録した「市井の生活者」による文藝集。会社員の女性が食べたものと値段を記録した「令和3年10月28日〜11月5日のグルメ報告」が個人的には好きです。33,000円のお寿司の昼ごはんも、150円のカップめんの夜ご飯も、同じ人の、同じ生活にあるんですよね。

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