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12月31日:「傷つくからやめよう」の先へ
おはようございます。
今日の目標は108回の腕立て伏せ。
へいなかです。
執筆現在70回。きちんと達成して筋肉痛で2022年を迎えます。
さて今日は、世の中の善人ぶりたい教育者もどきに一言。結論は「傷つくからやめよう…?じゃお前何をどう言えばいいと思ってるの?」です。
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母の日
父の日
1/2成人式…
学校教育の現場から消えつつある営み。
その理由は明白。
家庭環境がよくない子が苦しむ
ハッキリ言ってバカだと思ってます僕は。ちょっと丁寧に言うと、頭が悪い+無責任。
母の日も父の日も、成人式も…少なくとも現代の日本ではそこら中で目にするあたりまえのイベント。学校がそれをやらなくても、卒業後の人生では確実に触れる。
バレンタインやクリスマスと同じ。シーズンになればコンビニですら「母の日ギフト」「父の日ギフト」のコーナーが設置される。
母の日父の日、成人式が、家庭環境の劣悪な子にとって心のざわつく行事であることは事実だろう。で、あるならば…傷つく子がいるから「なくす」が正解なのだろうか?
それは本当に子どものためなのだろうか?
子どもたちの卒業後をイメージした上で、それでもなお「なくす」が正解だと言えるだろうか?
アパートと職場を往復するような一人暮らしの日々の中で、ふとコンビニに立ち寄ったら母の日ギフトのコーナーが目に飛び込んでくる。一服しようと公園脇の喫煙所に立ち寄れば公園で仲睦まじく遊ぶ家族連れを見かける。
学校では一切触れてこなかった「自分の家族がほかとはちょっと違う」という事実に、独りで触れるその寂しさを、学校の先生たちはどれだけ想像しているのか。
僕が学級担任なら、堂々とやる。
そしてやり方を変える。
こんな形で行うはずだ。
①自分の親へのメッセージでもOK
②将来自分の子どもからもらいたいメッセージでもOK
③悪口・暴言もちろんOK
要するに感謝を強制しないということ。
仮に子どもが荒れたっていい。学校で荒れてくれれば、僕が一緒に向き合える。孤独にアパートで向き合うよりよっぽど楽になれる。きちんと受け止められる。
どう考えてもその方がいい。
一時的に傷つく可能性は否定しない。
少なくとも心はざわつくだろう。
でも
それがなんだ?
一度も筋肉痛にならずに身体を鍛えることはできない。
痛みを避けてたどり着けるところなどたかが知れている。意図的に傷つけることはしない。でも避けられない痛みなら、なるべく緩和した上で、サポートできる状態で感じてもらった方がいい。
僕はそう考えている。
傷つく人がいるからやめる…?
お前ら本当にその子の人生を考えてんのか。
クリスマスや正月のリア充な投稿してないか?お前が楽しく過ごす様子を見ながらすれ違いざまに傷ついている人の存在に気づいているか?
傷ついてる人がいるから自分のリア充やめよう…なんて理屈が正しいか?
誰も傷つけずに生きていくなんて不可能なんだよ。
水質管理を完璧に行えるのは水槽だけだ。水槽で飼い慣らした魚をいきなり自然の海や川に放流したらどうなる?
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同じ理屈はLGBTqにもあてはまる。
ストレートな僕にはわからない苦悩がきっとたくさんある。同級生たちとアホな話で飲んでいる時…そこに当事者がいればきっと傷つくこともあるのだろう。恋愛とSEXの話ほど盛り上がるものはないのだから。
だけど…
じゃどうすれば傷つかない?
例えばトランスジェンダーの人にどう接する?
身体は男性
心は女性
のトランスの人。
男性として扱えば「私は女性なのに…」と苦しむだろう。でも女性として接したらきっと「とはいえ私は本当の女性ではないけど…」と自分の中で傷つくだろう。
男として接しても
女として接しても
どちらにしろ傷つく。
じゃ、傷つけるから接しないのか?
それはそれで、彼女の心をより一層孤独にしていくだけだ。
僕の答えはこう。
こんなことをきちんと言う。
俺は中身が女の子であることはわかってるから、基本的に女の子として接するよ。でもいわゆる女の子に対するような性欲は抱かない。変に気をつかって性や恋愛に関する話題を避けるのもちがうと思うから…普通にストレートな人たちと同じようにしゃべる。多少傷ついたり、違和感のあることもあるかもしれんけど、気になったら言って。
要するに「あなたの中身に合わせて接するけど限界もある」ときちんと明言する。
本人は過剰に気を使われても傷つくし、そんなことでは気を使うこちらも疲れてしまう。
だから
いい意味で配慮しない。
あけっぴろげに自分を出す。
男に寄せても女に寄せても別の形で傷つくことになるのだから、傷つけてしまう可能性に理解を示した上で、素の自分で向き合う。
これが僕の誠実。
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これは、ほかの問題に対しても同じだ。
僕が地球上で最も信頼しているある男には、父親がいない。長い付き合いだけど、なぜいないのかは知らない。離婚なのか死別なのかも、知らないし聞かない。
ただ…
彼に父親がいないことを気遣って僕が自分の父親とのエピソードを話さなかったことはない。
彼は短くない期間、不妊治療も行っていた。
僕にはすぐ子どもができて、子育ても楽しんでいて、それも遠慮なく話したし、時には祖父(僕の父)とのエピソードも話題にした。
もちろん配慮はゼロじゃない。
でも
自分の幸福を、人の不幸(のように見える状況)に気兼ねして隠しても、隠されたという事実がまた傷つけてしまう。
だから僕は配慮はしても遠慮はしない。
それが僕の誠実。
誠実さの中で感じられた痛みなら、人はきっと受け止めてくれる。
僕はそう思っている。
不誠実な遠慮がかえって人を傷つける…その事実を忘れてはいけないと思ってる。
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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。