『桜桃の味』-ひとつ未練があればいい-【映画鑑賞記録#6】
イラン出身、アッバス・キアロスタミ監督作品『桜桃の味』(1998年公開)鑑賞。
同監督作品では『友だちのうちはどこ?』、視聴済み。主演の子役が可愛らしくて印象的だった。
イランの風景にもペルシア語にも馴染みがないと思っていたけど、そういうものの風情にもたらされる心の動きは世界共通なようで。中東諸国がすぐ近くに感じられる作品。
あらすじは淡白。ある種ロードムービーのよう。または登場人物の顔を映す端的な構図にドキュメンタリーらしさも見出せる。ドラマティックではない。
死を思い立った男が、道行く人を車に乗せ、大金と引き換えに自殺幇助の願いをこう。すんなり話が通るわけもなく。
3回目に車に乗せた老人は、依頼内容を話す男に自身の思い出を説く。どうやら過去に同じ葛藤に悩んだが、ある桑の実に命を救われたそう。
人間の数よりも、人間が抱える悩みの総数の方が多いのは明らか。
老人が引き合いに出すのはトルコの笑い話。どこもかしこも触れたら痛むと病院にかかった患者を診て、医師は次のように診断した。「体はなんともないが、指が折れている」と。
ようは、なにごとも考え方の問題。「見方を変えれば世界が変わる」そうな。
それがなかなか難しい。
それでも、視点を切り替えるきっかけが何かひとつ心にあるといいと思う。
命が終わる前、最後に見ておきたいもの、触れておきたいもの、守りたいもの、そういうものがひとつでもあれば十分。
風景でも、味でも、人でも約束でもいい。なにかしらの未練さえあれば、それが人の拠り所となる。
自分と歩んできた小さな追憶が、いざという時に寄り添ってくれる。おそらく。
「人生は汽車のようなもの」「前へ前へただ走っていく」「そして最後に終着駅に着く」老人は語る。
ただしこの列車、全面展望が確認できない。自身の選択の可否は通過した後にならないとわからない。どの道を進んでいるのか判然としないまま、最終的には否応なしに究極の地点に到達する。人生は悲劇的な様相を帯びている。
だからと言って、終着駅までの線路が一本道だとも限らない。出会いに触発され、ゴールまでの道程に分岐が生まれる。そこでの遠回りに、人生のうまみが詰まっているのかもしれない。
少し説教ぽくて、語る内容は理想的な結果論に過ぎない。でも、なんだかんだ人は心で動いているし。
臭い話は馬耳東風。それでも、どうせ満身創痍の身に浴びせられるなら、屁理屈よりも本音がいい。熱くて胸をうつような言葉。
気休めにしかならないとしても、それでいい気分になれたら、騙し騙しにまだ前を向ける気がする。
鑑賞日:2024/4/2
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