『ファンタスティック・プラネット』【映画鑑賞記録#7】


『ファンタスティック・プラネット』(1973年初公開)鑑賞。フランス人作家のステファン・ウルによる長編小説をアニメ化した作品。しばしばネット上で話題にあがるので長いこと興味があった。Amazon primeで公開されていた折に。

見はじめて真っ先に感じたのは東欧趣味。制作国にはフランスとの表記が。フランスにもここまでニッチな世界観があるのかと、少し意外。
おそらく色彩や画風からチェコの人形劇や、ヤンシュヴァンク・マイエルあたりの雰囲気を嗅ぎ出したのだろう。(この頃『ファウスト』と『オテサーネク』を見たばかりで)
後で調べてみると、本作はフランスとチェコスロヴァキア合同作品とのこと。制作会社はイジー・トルンカ社。だいぶチェコだった。強烈なビジュアル、露骨な表現、ダークなストーリー性、幻想的なフィクション、そういう要素を兼ね備えた作品にチェコが思い当たるのはなぜだろう。フランツ・カフカやカレル・チャペックを連想する。
なお、70年代は日本ではドラえもんやサザエさんが始まる頃。アングラなアニメ映画に絞ると、日本で公開されたものには何があるだろうか。

ストーリーの方はよくある設定のsf。高度な文明や力を持った生物が支配する架空の星が舞台で、そこで闘争する人間(モチーフのキャラクター)が描かれている。藤子F不二雄の『ミノタウロスの皿』(1969年)や『家畜人ヤプー』(1970年)の系統。万人受けと言わないものの、ハマる人にはハマりそう。というか『ファンタスティック・プラネット』こそ、その系譜の金字塔だったりする?もしかして。

そういうわけで、物語の内容には目新しい要素は特に見出せず。王道という感じ。それなのに、どういうわけか惹き込まれる。こと普段見慣れない斬新な画風や表現、キャラクターデザインの奇抜さが目を引いた。おそらく視覚芸術の効果に魅せられているのだろう。

一通り視聴して、人間(オム族による隠喩)の知性やポテンシャル信仰、異文化コミュニケーションの重要性、平和への願い、この辺りのメッセージ性を感じた。ただ本当にそれだけだとしたらやや陳腐。私が見つけていないだけで、もっと何かあるはず。
それこそ、そうした素直でポジティブな主張と、この作品独自のダークな世界観、なかなか相容れない気がする。やたら違和感がある。(かえってそのちぐはぐさが面白いのかもしれない)
東欧らしさを感じたということもあり、東西冷戦という背景想定しながら鑑賞していた。思えば、1970年代のチェコではプラハの春が頓挫し、隣国ソ連による監視体制が一層強化された時代だったはず。

オム族の天敵となるドラーグ族はオム族の数万倍の体躯。大きいという記号は、同時に強さのシンボルにもなる。自分よりはるかに巨大な存在に立ち向かう生き物、なんていじらしい。まさに列強国に反抗する小国のよう。
ただし、ドラーグ族と同じように、オム族、もとい人類にも野蛮な面はある。自分よりも弱いもの、下位のものを分類して、それらに対する扱いをはっきりと区別している。
なお、仮にドラーグ族と人類の間に違いがあるのだとすれば、加害、蛮行、支配にともなう内省や葛藤、そうしたある意味での弱さを抱くところ。そうした性質は人類特有なのではないか。自己嫌悪して、そう悲観的になるものでもない。

鑑賞:2024/4/1

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