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「哀れなるものたち」ー現代という現実を生きるー【映画鑑賞記録#1】


 「哀れなるものたち」の鑑賞記録(自分用おぼえがき)です。後述しますが、内容に自分の核心に触れるテーマ性があったので、しっかり文章に書き残そうと思い記事を綴りました。
 駆け足でまとめたので説得力に欠けとっ散らかっています。でも久しぶりに文字にもみくちゃにされてデトックスできました。すっきり。

はじめに

 半年近くぶりに映画館で鑑賞しました。家の方がリラックスできるので、映画鑑賞はサブスクが主です。
 2時間少々の尺ということもありやや緊張していましたが、思ったよりも時間の経過を早く感じました。
 刮目せよと力んでいたこともあるでしょうが、何よりも奢侈で洗練された視覚芸術や、五感に訴えかける華々しい演出、充実した主題性と問題提起による効果のおかげだと思います。
 退屈を凌ぐ要素で構成されており、せっかちな現代人に易しい映画だったのではないでしょうか。

 毎シーンごとに注視する点があります。ファッションや色彩、風景描写などの視覚芸術から、音楽、構成、登場人物の心情、メタファーなど、どの場面で一時停止しても、特記したくなる断片が見つかります。
 こと衣装が話題になっていましたね。私の推し衣装は、娼館での労働を経て社会主義に傾倒し始めた頃のベラが着用していた、ブラックを基調としたスクールガールスタイルです。スタイリッシュで非常に可愛かったです。ハイソックスとブーツの組み合わせ最高です。ファンアートも描きたいな。

 で、こうしたベラの衣装の変遷がひとつの指標になっているように、今作では「進歩」という概念が非常に強調されていました。そもそもこの映画全体が、ベラの成長譚と見なすことができます。ひいては、ベラのみならず、人類の進歩の歴史の再現と言っても過言ではないのでしょうか。
 要するに、ベラに与えられていたのは、人類の進歩を追体験する実験体としての役目でなかろうかと思うのです。序盤の彼女が纏っていた長い裾がついたドレスは、なんだかアノマロカリス(とか太古の水性生物)の尾のようで、人類の始点を暗喩しているように感じられました。

「進歩」という概念

「自然の所有者」の誕生

 では、ここでいう「進歩」とはどういうことなのか、世界史を振り返りながら考えてみます。
 16世紀、近代の成立とともにヨーロッパには個人主義が誕生し、人間は「自然の主人かつ所有者」であるという考え方が流行しました。デカルトの「人間は考える葦である」という有名な文句には、人間の身体性と精神性を区別し、かつ精神性の方に優位を与えるという意味が込められています。
 こうして発見された人類特有の理性を根拠として、人は、自己の肉体のみならず自然に存在する万物までもその支配圏に収めようとしました。

 こうした人間中心主義の潮流を象徴しているのが、人々が抱く生死観における変化です。とりわけそれは医療の分野で顕著になります。
 ベラは脳神経外科医であるゴッドによって、二度目の生を授けられます。こちらのゴッド、怪人フランケンシュタインをオマージュしていましたね。19世紀英国で発表された「フランケンシュタイン」は、科学技術の発展がまねいた罪禍を描いた作品です。

 科学技術の発展により、かつて神秘とされていた人体や自然現象のすべてに満遍なく名称が付されるようになり、解読され、人類の手中に収められるようになりました。
 この機運のなかで医者という役職は、神しか立ち入ることのできなかった、人間の神聖な生死の領域に介入し始め、神の不在を決定付けました。
 たかが人間に授けられた、「ゴッド(神)」だなんていう仰々しい呼称こそ、人類の傲岸不遜な態度を比喩しているように思えます。

 また、時を同じくして「machine animata(機械動物)」なんて概念も打ち立てられます。人間による動物(自然物)支配を正当化するために提唱されたこの考えは、機械である動物は感情を持たないので何をしてもいい、というものです。
 作中に登場する馬車に生きた馬の頭部がくっついたキメラは、まさしく機械動物の象徴でした。
 他にも複数のキメラが登場します。実験体としてゴッドに創造され利用される生き物たちは、おしなべてグロテスクな様相をしていました。まさに「哀れなるものたち」です。
 もちろん被験者としてのベラもまた、そうした「哀れなるものたち」のうちの一人です。そういう意味では、幼少から自分の体内にメスを入れ続けたゴッドも「哀れなるものたち」のうちに数えられるかもしれません。

 以上のように、「自然の所有者」や「機械動物」という概念が人間中心主義のスローガンとなり、人類の理性と科学技術の躍進を後押ししました。
 なお、こうした考えは、思考する精神(理性)と、それに従属する肉体という、二面性の存在を前提としています。
 私たち現代人は、本能による衝動をある程度理性で統制することができます。本能と理性が区別されていますよね。人間というひとつのうつわの中も、心と体という二面性があるのです。
 しかしながら、ベラにおいてはこの二面性が存在しません。

ベラの同一性

ベラは、成人女性の肉体に胎児の脳を移植されて二度目の生を与えられました。したがって、その精神性は胎児の状態です。当然、一切の社会性を持っていません。思考をせず、理性もなく、本能のままに振る舞う成人女性ということになります。
 逆に言えば、ベラというひとつのうつわの中では、心と体の同一性が保たれているのです。
 彼女は、人間が社会で過ごすうちに育んでいく固定概念や社会規則とは一線を画した世界に住んでいます。
 肉体に依拠する衝動がありのままの行動原理になっており、そこに社会性に起因する良心や罪悪感が介入する余地はありません。

 たとえ外部に野蛮・野性的と評価されても、彼女はそれらの批判的な眼差しや、既存の規則から解放され自由に生きているのです。
 物事をありのままに受け入れて、自分自身もありのままの気持ちを行動に移すことができるので、彼女にとっての肉体的幸福と精神的幸福には一貫性があるのです。
 定められたレールの上を生きざるをえない人々の立場からしてみると、非常に魅力的な生き方に映るかもしれません。

 そういうわけで、ベラは動物と同じように性を許容し肯定します。彼女はオーガズムを「幸せ」と形容していました。(字幕だと確かそう、オリジナル言語は聞き取れず)
 彼女にとっての性的快感は、肉体も精神も満たされる、純粋な幸福と言って差し障りありません。性に対する恥じらいを知らず、無垢なのです。

 ところで、知性の欠如から思うように言葉を行使できないベラの感情を翻訳するために、効果的に用いられているのが音楽です。
 といってもベラが披露するわけではなく、作中のBGMや効果音として劇的に使用されている楽曲がそれに当たります。
 原始から、知能度数に関わらずに感情を共有・共感できる手段こそ音楽です。人が口ずさむ鼻歌には、隠しきれない朗らかな気持ちが垣間見えます。
 この観点から、今作が音楽に置いていた重きは大きかったように思います。そういえばダンスも盛んに行われていましたね。ダンスもひとつの非言語コミュニケーションですが、音楽の下位に属していると言えますし、また別の話なのかしら。

 話を戻します。社会性・知性・十分な言語を獲得していないこの時点でのベラは「人間」よりもキメラといった「人工動物(または、人工動物としてのヒト)」に分類することができます。

人間を人間たらしめるもの

倫理観との共存

 これまでに述べたとおり、ベラは社会規範から逸脱しているので、人間の野性味溢れる欲求をなんの後ろめたさもなく追求することができます。
 しかしながら、そんなベラも旅を通して理性や社会性を学習していきます。「機械動物」から「考える葦」へのメタモルフォーゼを遂げるのです。

 ベラは旅中に降り立ったエジプト(確かそう)で、スラムでの悲惨な現実を目の当たりにします。そこでは、過酷な環境にさらされた乳児や幼児の死骸がひしめきあっていました。
 この衝撃的な光景に心を痛めたベラは、世界が有する残酷な側面を学びます。まるで醜悪な事実が存在しないような、世界の綺麗な片側で生きていたことに気がついたのです。つまり、世界を構成する正と負の二面性を認識するようになるのです。

 ベラに成長をもたらしたのは、世界を知りたいと願う好奇心ですが、それは世の中の真実を暴きます。医者が患者の肉体にメスを入れるように、隠された事象を明らかにしていくのです。
 これまでに秘匿とされてきた真実の中には、人々の自己欺瞞や残虐性も含まれていました。
 知ることには代償が伴います。人類は、自らの醜態を自覚して傷きます。これは、合理性や理性に帰結する探究心とは対極にある、繊細で複雑な情緒(精神に所属する非合理性)によってもたらされる感情の動き(人間の本能の部分)です。
 なんだか自傷行為のように思えます。ちと健気で愛らしいです。こういう女々しさが人間の要件なのかもしれませんね。

 そういえば、ゴッドが作り上げたキメラの楽園は、人工的で、グロテスクな様相をしていました。半ば人工物であるゴッドはできる限り俗世と距離を取ろうとしていましたね。半キメラである彼自身も、自身の存在を恥(負の側面)と見なしていたのかもしれません。
 一見倫理規範から逃れたマッドサイエンティストのゴッドですが、彼もまた社会通念や良心という障壁に拘束されていたのです。こうした不自由さに、ゴッドのなかの人間らしさが垣間見えます。
 とはいえ、このようにして正負の存在を自覚して内省しながら生きることは「自然の所有者」たる人間だからこそ、背負うべき責任のように思えます。

 蛇足になりますが、人間と人工物を明確に区別する線引きはどこでなされるのでしょうか?体に何回メスが入ったら、何本の医療用縫合糸が縫い込まれたら、いくつ人工臓器が移植されたら、人は純粋な人でなはなくなるのでしょうか。
 または、社会規則という人工物が、人の精神に干渉している時点から、人は自然体であることをやめているのでしょうか。次々に疑問が浮かびます。

 私としては、負の側面の存在そのものよりも、忌むべき負の側面があたかも存在しないかのように振る舞う偽善性の方がずっと恐ろしく感じます。
 いわゆる忖度とか迎合とかそういう言葉に形容される言動です。それが存在している状態、またはそれそのものは非常に「Kitsch」だと思います。

ミラン・クンデラの残り香

 この「Kitsch」という概念は、私にミラン・クンデラを強く想起させました。というか、この作品全体のテーマに、クンデラのそれと共通するものがあったように思います。 
 ミラン・クンデラ(1929-2023)は、チェコスロヴァキア出身の作家です。20世紀の動乱の中に生まれ、去年の夏に鬼籍に入りました。
 代表作を挙げるとしたら、『存在の耐えられない軽さ』(1984)でしょうか。1960年代から70年代にかけてのチェコ地域を舞台にした(スロヴァキア独立前)、共産主義体制を背景に繰り広げられるラブストーリーが描かれています。

 私は彼の作品が大好きでかなり影響を受けました。言語学・哲学など広範にわたる示唆に富み、現実と形而上の境界が曖昧になるような構成や、幻想的でいて現実的・懐疑的ながら包容力のある世界観に魅了されました。ホームです。
 彼の作品には一貫して取り上げられる共通の主題があり、そのうちのひとつが「Kitsch」という観念です。
 Wikipediaを引くと、いんちき、まがいものを指す文芸批評用語だと説明されています。この用法と、実際にクンデラが用いるKitschのニュアンスは少々異なります。



 「キッチュへの欲求とは、物事を美化する偽りの鏡に自分を映し見て、ああ、これこそじぶんだと思って感動し、満足感に浸りたいという欲求のことである」

ミラン・クンデラ『小説の技法』西永良成訳、岩波書店、2016年、p.185

 上記の引用は、クンデラが敬愛するヘルマン・ブロッホ(1886-1951)による定義ですが、クンデラのKitsch観と同一視して構わないと思います。
 承認欲求とも言い表すことができるこの概念は、人々に無意識の攻撃性を植えつけたりなんだりとして、人の生命活動に混乱や困難をきたします。とはいえ、人間の精神的欲求(社会的欲求・承認欲求、マズローのピラミッドのやつです)に結びついているがゆえに、人が人である限り逃れられない価値観なのです。

 この「Kitsch」の攻撃性を、クンデラは長年にわたり懸念としていました。もちろんKitschは物事の二面性を前提としております。(隠すべき側面とは、タブー視されるものを指します。例えば性的なものの存在とか、差別が存在している事実とか)
 「哀れなるものたち」における二面性に対する態度に、なんとなくクンデラのKitsch観との共通する素質を感じたのです。それ以外にも、行列(進歩)、医者、二面性、それらのテーマ性に、クンデラの残影を見出すことができました。
 大大大好きなクンデラについても改めて書きおこしていけたらいいなと思います。

わたしたち「哀れなるものたち」

行列の最先端

 以上述べてきたように、人類は進歩と並行して、二面性、すなわち正誤(正負)を獲得しました。従来の自然状態においては、正誤は存在せず、すべてが正当性を伴うありのままの事実であったはずです。
 つまり、正の側面とは、人為的に作り出された規則であり、成分化の如何に関わらず、世界を効率的に管理する働きをしています。一体この規則は誰によりもたらされたのでしょうか。また、その正当性や絶対性は何に依拠しているのでしょうか。

 正常とはこうであるべきだとする潮流から逸脱した人々は、自らの不出来を嘆くか、良心の呵責に苛まれるか、公益と引き換えに他者からの無関心という安らぎを享受するか、いずれにせよアウトサイダーという称号を付与されます。
 彼らは、社会から解放されて見えますが、孤独というリスクを背負っています。孤独に打ち勝つ強さを持たない人は、規則への従属を選択せざるを得ません。とはいえ、この状況は、社会を生きている、社会を生かされている、どちらだと言えるのでしょうか。
 この問題提起は、人類のみならず、人類の所有物とされる万物にも適用されます。自らもたらした進歩によって猜疑心や罪悪感という桎梏に束縛されるようになった人類も、われわれの利己性に巻き込まれた万物も、みな等しく「poor things」なのです。

 ゴッドが待つ邸宅へ戻ったベラは、屋敷の住人に「モンスター」という言葉を浴びせかけます。ベラに次ぐ成人女性の被験体の誕生に憤って発せられた蔑称です。
 ここに見られる生命に対する冒涜への反抗心はベラの中に芽生えた倫理観を象徴していますが、理性的なneoベラもまた、将軍の命に対して同様の行いをします。
 ベラの手術によって山羊の脳を移植された将軍は残虐性を喪失します。この選択はベラの自己防衛であり、理想を実現させるためのエゴイスティックな手段でした。
 このようにして築かれた楽園は、まさしくディストピアです。ちぐはぐでグロテスクで、残虐性を覆い隠す残虐性に満ちているような印象を受けました。まことにKitschです。進歩には必然的に、正しさの遂行と誤ちの修正・破壊が伴います。

 最終的にベラは医者を志します。機械動物とも動物とも袂を分かち、科学技術や合理性の追求を選択し、進歩という歴史の列車に乗車する決断を下しました。 
 ベラの決意には、世界の二面性を受け入れ、苦しみながらも進歩を続ける人類が投影されているのではないでしょうか(成長痛?)。彼女も、彼女が創り上げた幸福な楽園も、人類の進歩という行列の最先端であるように思われます。

現代という現実

 世界観が全体的にごてごてでキッチュ(悪趣味の意の方、褒めてる)でしたが、それでいて脚本や演者からはKitschにたいする反骨精神を感じました。
 また、センセーショナルなエマ・ストーンの体当たり演技を目にすることができて嬉しかったです。『女王陛下のお気に入り』でも似たイメージを抱きましたが、それ以上に苛烈でした。潔さが格好いいです。

 個人的には、ポリティカルコレクトネスや、ジェンダー平等の価値観が敷衍する今だからこその世界観なのかな、という気がします。そういう意味で、「哀れなるものたち」は、政治や世論から一線を画す立ち位置の映画であるように思いました。
 女性の社会進出や権利向上など、確かに描写はされているのですが、「進歩」という抽象的なテーマを描くために挙げられた具体だという印象を受けます。

 正しいとされる社会規範も誰かにとっては誤りになります。とはいえルールの不在は混沌をもたらします。規則のなかに身の丈に合った幸福が存在しているのですよね。誤り(とされるもの)を一方的に断罪しないバランス感覚、大事です。
 そんな風に、意識を張り巡らせて、最善を求めて逡巡と内省を繰り返し、Kitschとも格闘して、疑心暗鬼と自己嫌悪に思い悩む、そんな私(たち)は、非常に哀れな「poor thing(s)」と言えます。

余談

 最初に述べた通り、久しぶりに映画館で鑑賞しました。スクリーンには鑑賞者を緊縛する威圧感があるように思います。上映中、身動きが封じられることが苦手で、普段は専ら家での鑑賞をしています。

 今回はレイトショーでの視聴となりましたが、席は半数ほど埋まっていました。
 私は通路側の中央の席に座り、二つの空席を挟んで一人の男性が着席しました。この男性が上映中にスナック菓子を開封して食べ始めました。おそらくエアリアルのチーズ味です。匂いが強烈すぎる。
 加えて、私と同じ場面ごとのタイミングで肩を震わせるので(ブラックジョークに対する嘲笑)なんとなくシンパシーを感じました。アナーキーな方だと思いました。

 視野を広げると、色々なものが見えてきます。映画館にはこうした楽しみ方もあるのですね。総じて、面白くて有意義な鑑賞体験を過ごせました。

鑑賞:2024/2/4


せっかくなのでお気に入りのビジュアルも描きました!楽しかった〜

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