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『欅坂46』から読む-デモクラシーと気候正義 第三話

 第三話「不協和音」と闘う大正デモクラシー①

 民主主義の獲得とは、闘いの歴史である。人権も、自由も、民主も、選挙も、はじめから存在したわけではない。変革の波に「参加し」、「異議申し立て」を行い、正義のために社会に「不協和音」を響かせた者たちがいたのだ。彼ら彼女らは、「叫びを押し殺」さず「同調」することなく「僕は嫌だ」と言い続けたのである。

 今から100年前、多様な言論が飛び交い、社会運動が吹き荒れた時代、そして「普通選挙」と「政党政治」が実現した時代が日本に出現した。
 「大正デモクラシー」である。

・女性解放の闘い

 大正時代の前年である1911年、五人の女性が雑誌をつくった。雑誌の名は『青鞜』という。平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」は『青鞜』の創刊の辞である。
 青鞜という誌名は、英語のBlue stockingの訳語である。18世紀半ばのロンドンでは婦人たちが男性とともに芸術や科学について語り合うサロンが一世を風靡したが、そのメンバーの一人が青い靴下blue stockingsをはいていたのだ[1]。英国ではこののち、当時は「男性」の領域とされていた学問や芸術を志す女性が「ブルーストッキングス」と呼ばれて嘲笑されることになる。らいてうたちはこれを逆手にとって、「そうだ、私たちはブルーストッキングスだ。偉そうで厚かましい女性だ。文句があるか」と初っ端から啖呵を切ったのだ。

元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
…私どもは隠されてしまった我が太陽を今や取り戻さねばならぬ。
(平塚らいてう『元始女性は太陽であった』)

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[図1]『青鞜』の表紙

 巻頭には、歌人の与謝野晶子が寄稿した詩が載せられている。

山の動く日来(きた)る。かく云えども人われを信ぜじ。
山は姑(しばら)く眠りしのみ。
その昔に於て 山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。
一人称にてのみ物書かばや。われは女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや。われは、われは。
 (与謝野晶子『そぞろごと』)

 『青鞜』の人々が闘いを挑んだのは、女性たちを「妻」として家庭に押しやり、国民を育てる「母」として国家に仕えさせるという「良妻賢母」思想である。女性を家という私的領域にとどめることで主体性を奪う家父長的な社会に対し、女性の自立、自我の尊重を謳ったのである[2]。1916年(大正5年)には中央公論社から『婦人公論』が創刊され、女性の主体化を目指す声は社会に広まっていった。

 1916年から1918年にかけ、この『婦人公論』において「母性保護論争」が繰り広げられる。論者の一人である与謝野晶子は、女性の経済的自立と家庭での夫婦の協力を重視する立場から、男性や国家が女性に対し結婚・出産の保護を行うことを批判する。これに対しらいてうは、女性が働いてもわずかな賃金しか得られない現状を見ていないと反発する。そして女性は母であることによって個人的な存在から社会的な存在になると述べ、母である女性を保護することは女性の幸福のみならず、社会の幸福につながるのだ主張した。
 さらに社会主義者でもある山川菊栄は、晶子を「女権主義」、らいてうを「母権主義」と呼び、双方の主張に一理ありと頷きつつ、労働者を搾取して資本家が富むという社会構造の改革を求める階級的立場からでないと「婦人問題の根本的解決」は成しえないと指摘した[3]。

・民本主義と社会主義

 1916年1月、雑誌『中央公論』に吉野作造の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」が掲載された。この論文の中で吉野は「一般民衆の幸福と意向に重きを置く政治」として「民本主義」を唱えている。主権が天皇にあることは否定せず、「大日本帝国の国民」という枠組みの下で民衆の意向を重視する政党政治や普通選挙を求めたのだ[4]。

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[図2]当時の『中央公論』

 同じく1916年、経済学者の河上肇が『貧乏物語』を書いて「文明国」の格差と貧困を告発した。当時のアメリカ、イギリス、フランス、ドイツといった国々では、人口の2%の富裕層が国富の3分の2を保有しており、片や3分の2を占める貧困層には富の数%しか行き渡っていなかった。『貧乏物語』はこの事実を分かりやすく説き、人々に貧困を社会問題として認識させたのである[5]。   

 だが河上は、既存の体制との対立を避けるためか「社会組織の改造よりも人心の改造が一層根本の仕事」と述べ、貧困を解決するためには先に人々の意識が変わらなければならないと結論した。
 しかし、社会の制度や仕組みの抜本的な改革を求める「社会主義運動」が次第に勢いを増してゆく中、彼は後に社会主義者に転身してこの結論を否定することになる。

・民衆運動とデモクラシー

 1918年夏、日本海沿岸の中小都市で、女性たちが米の搬出を防ぐために集団で役所に押しかけた。女性が始めたこの抗議行動は、学生、商人、工場労働者、被差別部落民など多様な社会層を巻き込みながら、日本全国に広まってゆく。「米騒動」の始まりである。

 騒動の発生要因は、数年前から続いていた米価の急騰とそれに伴う食料価格の上昇により、人々の生活の糧が脅かされたことである[6]。河上肇が問題化していた、食もままならない「絶対的貧乏」が広まったのだ。  

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 [図3]米騒動の様子

 また労働者の富豪への憤りや、被差別部落民の差別への抵抗など、格差社会に対する怒りも運動の背景として指摘されている。全国化したこの運動は数か月続き、民衆の抵抗は当時の寺内内閣を総辞職へと追い込んだ。このあと、初めての政党内閣である原敬内閣が誕生することになる。

 米騒動の翌1919年、運動の高まりを受けて雑誌『改造』が創刊される。『改造』は労働争議や社会運動について積極的に語り、反資本主義や階級闘争を真っ向から叫んで民衆を鼓舞した。
 社会主義者であり、山川菊栄の夫でもある山川均も『改造』の主要な論者の一人である。均は、吉野の「民本主義」は社会・政治の「改良」を主張するだけで、むしろ既存の社会関係を維持させていると批判した。その上で、「人民」に主権を置くより広い意味の「デモクラシー」を主張したのである。同年には以前から継続されてきた普通選挙運動がさらなる盛り上がりをみせる。学生によるデモ行進や集会の力が加わって、デモクラシーを求める声は民衆の間で膨れ上がっていった[7]。

 1924年からは、『改造』に細井和喜蔵と高井としをによる『女工哀史』が連載された[8]。紡績工場における過酷きわまる女性の労働を記録したこの書は、女性であることと労働者であることの二重の抑圧を可視化し、女性解放と労働者の解放が切り離せないことを示したものでもある。

(次回へ続く)

<参考>

[1]ハンナ・マッケンほか『フェミニズム大図鑑』最所篤子・福井久美子訳 三省堂 2020
[2]小川静子『良妻賢母という規範』勁草書房 1991
[3]岩淵宏子「平塚らいてう」江原由美子・金井淑子編『フェミニズムの名著50』平凡社 2002
[4]成田龍一『大正デモクラシー』岩波書店 2007
[5]牧野邦昭「大戦ブームと『貧乏物語』」筒井清忠編『大正史講義』筑摩書房 2021
[6]井上清・渡辺徹編『米騒動の研究』有斐閣 1959-62
[7]季武嘉也「原敬政党内閣から普選運動へ」筒井清忠編『大正史講義』筑摩書房 2021
[8]高井としを『わたしの「女工哀史」』岩波書店 2015
  

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