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『十二国記』から読む-気候変動と政治 第一話

 『十二国記』をご存じだろうか。
 1990年代から続くファンタジー小説で、これまでに短編集も含めて10作が刊行されている。

 以下にそのあらすじを記す[1]。

我々の棲む世界と、地図上にない異世界〈十二国〉とを舞台に繰り広げられる、壮大なファンタジー。
二つの世界は、「蝕」と呼ばれる現象によってのみ、行き来することができる。〈十二国〉では、天意を受けた霊獣である麒麟が王を見出し、「誓約」を交わして玉座に据える。選ばれし王が国を治め、麒麟がそれを輔佐する。しかし、〈道〉を誤れば、その命は失われる。気候、慣習、政治体制などが異なるそれぞれの国を舞台に、懸命に生きる市井の民、政変に翻弄される王、理想に燃える官史などが、丹念に綴られている壮大な物語である。

 さて、今回はこの『十二国記』から「政治」と「気候」との関わりを読み解き、現実の気候変動と政治の在り方を考える一助としたい。

・『十二国記』の世界観

 まず十二国記の世界の仕組みと、その気候がどうなっているかをみてゆきたい。

 物語の中では「麒麟」と呼ばれるキャラクターが一国の王を選び、麒麟に選ばれた王は「天意」を背景として政治を担う。出自、身分、年齢、性別などに関わらず、麒麟に選ばれ誓約を交わせばその人は王となる。よって物語に登場する王は、壮年の武将であったり、10代の少女であったり、農夫であったりトランスジェンダーであったりと様々である。
 
 また「蝕」と呼ばれる災害によって、十二国とその外の世界である日本がつながることがある。これによって日本から渡ってきた者は「海客」と呼ばれる。日本と十二国では言語も文化も異なっているため、海客は差別を受けて職に就けないなど困難を強いられる。おそらく現実の難民をモデルにしているのだろう。

 蝕は現実の災害と同じく自然に発生するが、「王」と「麒麟」だけはこれを人為的に引き起こすことができる。十二国の王や麒麟は日本で生まれ育つ場合があるが、これによって十二国の世界に戻り、政治を担うことが可能となる。

・『十二国記』における気候変動

 さて、十二国の世界では王が玉座について国を統治するわけであるが、麒麟が選ぶまで王が不在の期間がある。一国の主である王がいないとき、国は「災異」に見舞われる。作中のセリフにはこうある[2]。

王は統治するだけではない。災異を鎮め、妖魔を鎮める役割を担っているのだからな。
妖魔が出没する。嵐が起こり、日照り、水があれる。疫病が流行り、人心は惑う。国土は荒廃して民は辛酸をなめることになるだろう。

 このように、王がいない国では気候が不安定になり、干ばつや洪水、寒波や嵐の被害を受けるようになる。民衆は作物を育てられなくなり、盗みや略奪、人身売買が横行し治安が乱れる。さらには疫病や人を襲う「妖魔」が発生し、人々の命が脅かされる。

 王がいなければ上記のような気候変動が起こるわけだが、これは王が「天命に背く統治」を行った場合も同様である。ここでいう「天命」とは、国の民衆が平和に生きられるような統治を指す。「天命に背く」とは、犯罪や官僚の不正が広がるのを止めず、人々の生活を守るという役割に反した政治を行うことである。この時に災異が起こり始める。

 天意を体現する慈悲深い存在であり、血や争いを嫌う「麒麟」は王を諫めて民を救おうとするが、それを無視して王が悪政を続ければ、麒麟は死に至る病にかかる。これは「失道」と呼ばれる。麒麟が死ぬと王も命を失い、国に王のいない状況が生まれることになる

・古代中国思想とのつながり

 ここにみられる『十二国記』の世界観は、古代中国の思想家である董仲舒の「災異説」をなぞっているのだと思われる。これは、統治者の「道徳的・政治的な善悪が原因となってその結果、天の災異、瑞祥が表れる」という思想である[3]。

 この考えによると、統治者が悪政を働けば天が怒り、災害や怪異(災異)を起こすことで君主に警告を発する。君主が態度を改めれば災異は止むが、それでも変わらなければ天は「道が失われた」として、君主を玉座から引き下ろす。この「革命」が起こると、天が善と認めた別の誰かが君主として新たに国の支配権を握る。

 董仲舒は漢代の初期に活躍し、「災異説」はその後の中国世界に大きな影響を与えた。国の統治者は天の威を借りて自らの地位を正当化できる半面、悪政を働けば災害に襲われ「革命」が肯定されてしまうというこの考えは、君主個人に道徳に基づいた善政を求める儒教(当時の国教)と相性が良いのである。

 ただし、この「災異説」と『十二国記』の世界はいくつかの点で異なっている。二つを大きく分け隔てているのが「麒麟」の存在である。上述したように麒麟は「天命」に従って王を選び、その王が政治を乱せば自ら病にかかって「道が失われたこと」を示す。そのまま麒麟が死ぬと王も道連れに死ぬことになるので、王の政治を改める力は「災異説」よりも強く働くことになる。また慈悲を求める麒麟が補佐役として王のそばに侍っているので、善政を促すプレッシャーはやはりより強くなっていると考えられる。

・気候変動と人間の歴史

 現在の気候変動が人間活動を原因としていて、それがさらに戦争を引き起こしていることは以前の記事「『天気の子』から読む 第二話」や「『ONE PIECE』から読む 第一話」で既に述べた。

 しかし元来、人類は常に気候の変化に影響を受けてきたのであり、その都度に政治的な対応を迫られてきたのである。

 紀元前4000年ごろのメソポタミアでは、降雨パターンの変動によってチグリス・ユーフラテス川流域の農業が立ち行かなくなり、食糧と土地をめぐる紛争が頻発した。この時期に、都市国家のウルは周囲との戦争によって消滅したと言われている[4]。
 また、ナイル川によって農業が成り立ってたエジプト古王国では、渇水や洪水によって凶作が続いて内紛が起こり、結果として王朝の統治力が衰退したと言われている。その後、ナイル川上流の都市テーベが治水に成功し農業を立て直すと、エジプトは再び統一され中王朝が始まるのである。

 気候変動によって抜本的な政治改革が起こる場合もあれば、既存の制度で対応できる場合もある。例えば江戸時代の天明期(18世紀末)では、気温の寒冷化に加え豪雨や台風による被害が相次いで幕府は行政改革による対応を迫られたが[5]、江戸幕府という体制そのものの転換には至らなかった。


 他方、こののちの天保期(19世紀半ば)には、豪雨や冷害といった異常気象により大規模な飢饉が生じた。もともと非暴力を旨としていたはずの百姓一揆や打ちこわしが暴力化し、大塩平八郎の乱を始めとした武装蜂起が多数発生した。これにより幕府の秩序は大きく揺らぎ、政治体制の転換期としての「幕末」に突入していくのである[6]。

安全保障問題としての気候変動

 上に見たように、古今東西を問わず政治は気候変動と分かちがたく結びついていたのであり、『十二国記』の世界はファンタジーというよりはその歴史的事実を踏まえて設計されているのだと言える。気候の問題は常に、政治の重要事項である安全保障問題だったのである。

 ただし、これまでの歴史では「気候が政治を左右する」ことはあっても、「政治が気候を左右する」ことはあり得なかった。一方でIPCC(気候変動に関する政府間パネル)によると、現在の気候変動は「疑いの余地なく」人間の政治によって引き起こされている[7]。人類史において初めて、私たちは「政治が気候を左右する」時代を迎えているのである。

 この未曾有の事態を前にして、私たちは一体どのような道筋を描いてゆけばよいのか。今回のシリーズでは、その手がかりをフィクションによって気候変動の原因を政治に求めた「災異説(中国思想)」と『十二国記』の中に探ってゆきたい。

 予め断っておけば、今まさに進行している気候変動は「科学的・客観的にみて」人間によって引き起こされたものであり、決してフィクションなどではない。ただし、この現実を受け入れられない人があまりにも多いという実情もまた考慮せねばならない。だとすれば「如何にして私たちは気候変動に対して責任を引き受け、これを止めるために自らを変えることができるようになるか」という、文学と思想が扱う主観の問題に取り組むことに大きな意義があるはずである。

<参考文献>

[1]小野不由美「十二国記」新潮社公式サイト
[2]小野不由美『月の影 影の海 十二国記』新潮文庫
[3]溝口雄三ほか『中国思想史』東京大学出版会 2007
[4]秋元一峰「気候変動が創造した安全保障」坂口秀監修『気候安全保障』東海教育研究所 2021
[5]中塚武ほか『気候変動から読みなおす日本史 (5) 気候変動から近世を読みなおす』臨川書店 2020
[6]須田努『幕末社会』岩波書店 2022
[7]IPCC第6次評価報告書第1作業部会 2021

 




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