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「自分の星」を生きる

『ちひろさん』を観た。孤独な人しか出てこない映画だった。みんながそれぞれの孤独を生きている。そういう人たちが、最も孤独である主人公のちひろを媒介にして一時を共有する。

ところで、孤独とはなんだろうか。以降の記述は、その問いに関する話になる。

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ちひろは、誰にも心を開いていないがゆえに誰にでも開かれた存在になっている。ちひろは徹底的に他者を拒み、自己を閉ざし、秘密を持っている。それは作品の鑑賞者に対してさえも、である。背中の傷の詳細も、風俗の世界に足を踏み入れた動機も明かされることはない。きっとそれは作中の登場人物たちに対してもそうである。

遺体を埋めたり、いざとなれば人を殺めることを厭わない(殺人を勧めるシーンがある)、ラディカルな倫理を生きているちひろ。そのサイコパスのような素朴さが、バイアスなくフラットな人間関係を築くことを可能にしている。極端な分け隔てなさは狂気であり、非人間的に映る。

恋愛観の話で「自分は何にも酔えない」と友人のバジルに語るちひろ。ちひろは自分を「シラフ」の人なのだと語る。何にも自分を委ねることができないその「シラフっぷり」こそが、ちひろの不気味とも言えるフラットさを可能にしている。

言ってみれば、人間はどこかしら「酔って」いる生き物だ。誰しもどこかには偏りがある。ある価値観や好み、また人間関係における偏り。それが何事かへの「酔い」だとすれば、バジルもオカジもまことも元店長も弁当を買いにくる客もこの映画の視聴者も、みんな自分なりの「酔い」を生きている。ちひろが「シラフ」の人であるのは、その意味で狂気なのである。人間的な偏りをもたない、「酔え」ないちひろのフラットな狂気。それはある意味では誰よりも正気で、正気すぎる人間の狂いだとも言える。正気な「シラフ」の狂気。誰に対しても分け隔てなく接しているようで、誰にも「酔え」ない。いや、誰にも「酔え」ないからこそ、誰にでもフラットに接することができるのだ。ちひろは「シラフ」だからこそ孤独であり、その孤独さゆえに「シラフ」を生きるほかない、そういう深い孤独を生きている。


ちひろは、幼い頃に神社で出会った「ちひろ」という女性を思い、彼女の名前を名乗るようになった。その女性は人生で二人しか出会っていないという、自分と「同じ星」の人だと感じる人だった。ちひろは、自身を「ちひろ」と名乗ることによって、幼い頃出会った「同じ星の人」の存在を確かめ、自分の星を感じることができた。

そう、ちひろは「ちひろ」と名乗っているときだけは自分でいられたのである。源氏名によって「別人格」の仮面を被っているのではない。その逆である。「ちひろ」を名乗るそのときだけは、「同じ星」の「ちひろ」と出会ったあの頃と地続きの自分を生きられるのである。そのときだけは、ちひろは「自分の星」に立っているのである。

他の大勢と「星」を共有している人は、「自分の星」で生きることを意識しなくていい。意識せずとも、みんなと同じ星に立てている。そのとき、自分の星を探したり疑ったりする必要は生じない。自分がこのようであることを疑う必要のない存在、それが「マジョリティ」という存在である。

孤独な人とは、誰とも同じ「星」を生きていない人である。その人は、人とは違う星を生きている。しかし、人とは違う「自分の星」で「自分の孤独」を生き抜くのは、並大抵のことではない。それは大変な不安を伴うから、普通、人は他人と同じ星を生きようとする。しかし、ちひろは「自分の星」を生きようとし、自分の孤独を守ろうとしていた。それは彼女の「強さ」だと言っていい(この「強さ」は、例えば、友人グループから村八分にされることを覚悟してノリに水をさすメッセージを送ったオカジにも見ることができる。オカジもまた、楽ではない「自分の星で生きること」を選び取る勇気を持つ人だった)。そして、ちひろが自分の星を生きるために必要としたのが、かつて神社で出会ったあの「ちひろさん」だった。唯一、自分と同じ星にいると思える人の存在が、自分の星を生きるために必要だった。


クライマックスで、もう一人の「同じ星」の人である多恵さんが、屋上での宴会から一人抜け出したちひろに電話をする。

ちひろは「なんか楽しくて、珍しくお酒が回っちゃったみたい」と話す。多恵は、ちひろがどこか遠くへ旅立とうとしていることを察知し、「もういいんじゃない、どこにも行かなくても。あなたならどこにいたって、孤独を手放さずにいられるわ」と諭す。

結局それ以降、ちひろが弁当屋に来ることはなかった。ホームレス、不器用な母を持つ少年、不登校の中学生、弁当屋の客。それらの孤独な人と触れ合い、心を開かないまま人を求め、「ちひろ」としての人間関係を生きることで「自分の星」を確認してきたちひろは、弁当屋を去り、牧場で牛の世話を始める。ここで映画は閉じる。

「シラフ」を貫き、何にも酔わずに生きてきたちひろが、最後に「お酒が回った」と話す意味は大きい。彼女はついに「酔った」のだ。それは、誰にも心を開かずに何にも「偏らずに」生きてきたちひろの初めての「偏り」である。では、彼女は何に「酔った」のか。「自分に」である。もっと言えば「自分の孤独に」である。彼女はようやく、自分の孤独に身を委ね、心を開き、そこに「酔う」ことができた。それが「孤独を手放さずにいられる」という多恵の言葉の意味である。彼女はもう「シラフの人」ではなくなった。

そして「孤独を手放さずにいられる」ようになったちひろは、人との触れ合いを求めなくなった。名前を名乗る必要のない動物を相手にすることを選んだ。ちひろはもう人間関係の中で「ちひろ」を名乗ることをしなくても「自分の星」を生きられるようになったのだ。「ちひろ」を媒介せずに自分の「孤独」を生きられるようになったのだ。誰かに「ちひろ」を名乗ることで自分の孤独を守り続けてきたちひろは、誰よりも人間を必要としていた。しかしもう、ちひろに人間はいらない。

これは描写がないので憶測だが、ちひろは牧場の主人に「ちひろ」と呼ぶことを求めていないと思う。本名の「古澤綾」として、「古澤綾」の秘密を持ちながら、「古澤綾」の孤独を生きているはずだ。自分ひとりで「自分の星」に立てる彼女に、「ちひろ」はもう必要ないのだから。

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