読書前ノート(3)
藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス、2022年)
先日仕事でトラックを待っていたら、予定の時刻になってもトラックが到着せず、ドライバーから遅延の連絡もなかったので、ただひたすらボーッと景色を眺めていた。その際に、一つの植物が目に入ってきた。そういえば植物はわれわれ動物のように移動することができない。これは大変なことだ、とふと考えた。われわれ動物は自力で移動が可能だが、植物は誰かに根っこごと移植してもらうか、種子として飛ばされて別の地面に根をはやすことで世代間の移動を行うことはできる。しかしその移動範囲はある一定の時間の中では極めて制限されているし、ほとんど場所を移動できないに等しい。移動できないことにはメリットとデメリットがあるはずだ。動物は自力で移動できるが、食料を自ら調達しなければならない。一方で、植物は栄養を土から吸収することができる。だが肥沃な土壌もあればそうでない場所もある。植物にとってその土壌が良いかどうかはある程度運命に委ねられているといえる。植物の生き方は、仕事をしているわれわれにとって手本にすべきかもしれない。というのも、仕事で配属された部署はそうやすやすと異動できるはずもなく、ある一定の時間内ではそこで頑張って働くしかない。成長している産業なら出世も早いかもしれないが、落ち目の部署であれば成果を出すことも難しいかもしれない。所与の環境でそこから逃れることも移動することもできず、孤独に沈黙して最大限に生きている植物に感動すら覚えた。ところで、植物もまた「孤独」を感じることができるのだろうか?昨今では動物の権利が叫ばれているが、植物にも動物同様に知性があり権利を持っていると主張する向きもある。それについて詳しく展開することはここでの趣旨ではない。少なくともレトリックとして擬人化しているわけではなく、極めて真面目にそのままの意味で、ある植物が思考し、感情を持ち、他の植物とコミュニケーションを取っているのか、と問うことは可能である。われわれが植物の思考や感情やコミュニケーションの仕方に関わることが難しいのは、人間と植物との間には類としての大きな隔たりがあるからである。「相互に共通点を持たないものはまた相互に他から認識されることができない。あるいは一方の概念は他方の概念を含まない。」(スピノザ『エチカ』公理5)。しかしながら、われわれが認識できないからといって、人間の認識の限界の先にあるものもまた少なからず存在する、と考える方が合理的である。植物について考えめぐらすことは、人間の認識の限界へ挑戦することでもある。
A・S・バーウィッチ『においが心を動かす——ヒトは嗅覚の動物である』(太田直子訳、河出書房新社、2021年)
「におい」という存在をすっかり忘れていた。このことに気がついたのは、昨日ルミネの化粧品売り場を通りかかったからだ。女性販売員がアロマオイルか何かのボトルを案内している姿を見て思った。自分が鈍感なだけで、世の中の女性は私以上に「におい」に対して敏感に思考しているのだと。「におい」は、テクスト上から削ぎ落とされる物質性の最たるものではないか。もちろん本から香るインクの「におい」ではない。生活のありとあらゆるところに現れる「におい」である。火を通した食材からは、何か香ばしい「におい」が立ち上がる。その体験そのものを、テクストを通じて伝えることは絶対にかなわない。犬は人間の何倍もの「におい」をその嗅覚から嗅ぎ分けるという。だとすれば、人間の目の前に立ち現れている世界と、犬の目の前に立ち現れている世界とは、多かれ少なかれ異なっている、と考えざるを得ない。実際、病気になった時、あるいはコロナに罹り嗅覚と味覚を失った世界とそうでない通常の世界とは、同じ人間でも「世界」の感じ方が非常に異なっているのではないか。「世界」とはそれほどまでに確乎たるものではないのである(感覚的確信)。「におい」は哲学のテーマから抜け落ちがちだが、わずかな先行研究もある。アラン・コルバンは『においの歴史』についても書いている。さすがだ。そしてカール・マルクスの有名な言葉に、宗教は「人民のアヘン Opium」だというものがあるが、その直前でマルクスは宗教のことを「あの世の、精神的なアロマ jene Welt, deren geistiges Aroma」と呼んでいる*1。マルクスの宗教批判はある意味でその「におい」を敏感に感じ取り、表現したものだともいえる。ではフォイエルバッハのように物質的前提から思考するとした場合に、我々は常に「におい」を忘れずに思考しているだろうか?哲学者にとって大事なのはこういう「嗅覚」であろう。
斎藤環『100分de名著2022年12月 中井久夫スペシャル 』(NHK出版、2022年)
中井久夫はいわゆるDSM-5に依拠する普遍症候群の精神医学一辺倒ではなく、「個人症候群」というスタンスに基づいて個々の患者に寄り添うという。その姿を、著者の斎藤環は上手く描きだしている。斎藤は中井の著書にみられる経験知を「箴言知」と呼んでいるが、それはいざというときに非常に役にたつ。 精神医学というのは、何も医者の専売特許ではない。というのは、私の部下がストレス反応で若干の呼吸困難を引き起こした時に、恐れ多くもカウンセリングもどきのようなことを行なった経験からである。最初は本人の口からは表面的なことがらがぽつぽつと出てくるのだが、そうした対話を通過した後で、慌てることなく一呼吸置いて少しばかり辛抱強く待ってみる。そうすると、家族という個人的な悩みが吐露された。少なくとも私はその体験から、精神医学への関心とその解像度が飛躍的に向上したように思う。その際に私の念頭にあったのは、中井久夫のいう「個人症候群」のスタンスであった。
濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か——正社員体制の矛盾と転換』(岩波書店、2021年)
昨今聞かれるようになった「ジョブ型雇用」という用語を生み出したのは、本書の著者である濱口桂一郎(1958-)だという。誤解を恐れず言うならば、日系企業の「メンバーシップ型雇用」に対して、欧米企業の「ジョブ型雇用」という概念を著者は示している。だが、昨今の「ジョブ型雇用」に纏わる議論は、著者の立場からすると誤解に満ち溢れているともいえ、だからこそ本書が書かれるきっかけとなった。良くも悪くも筆者の場合はユニクロとソフトバンクでしか働いたことがない為なのか、「ジョブ型雇用」「メンバーシップ型雇用」と言われても「何が問題なのか」がいまいち実感としてはピンとこない。いわゆる「JTC」と揶揄される企業では「メンバーシップ型雇用」が一般的なのだろうか。筆者の感じる問題点としては、日系企業の職務が身分制社会になっていないかという点である。いわゆる総合職に近い「メンバーシップ型雇用」の方が、専門職に近い「ジョブ型雇用」よりも身分が高いように感じる。企業内の身分制社会は給与体系に反映されるとともに、上層と下層との間には、基本的には乗り越え難い壁があり、それぞれ異なった「界」(ブルデュー)を形成している。それは慣習的に形成された第二の自然であるから、そういう実態を無視して「メンバーシップ型雇用」「ジョブ型雇用」などと区別したところで、誰の利益になるのか皆目見当がつかない。
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