引用は青空文庫からなのです。
李徴は妻子を養うために自分から地方官吏になりました。
袁傪たちが出発したのは「朝」です。
李徴にしてみれば、まさか友人の袁傪が通りがかるとは思ってもみなかったでしょう。
李徴と袁傪はとても親しかったのです。李徴が虎になったのは「超自然の怪異」です。
一年前に出張先でおかしな現象があり、李徴は虎になってしまいました。妻子を養うのを放棄したわけではありません。
全文でここだけ「我々」が使われており、一般論かつ小説のテーマになっています。李徴が虎になったのは超自然現象であり、理由は「分らぬ」。「李徴はなぜ虎になったのか?」という無意味な問いは必ず誤った答えにたどり着きます。
虎になることは自体はそんなに不幸でもなさそうです。「誰にも分らない」を二回繰り返しているので、「山月記」で最も重要な箇所です。
「旧詩」に欠ける「何処か」は「だまし」のことです。だましは一種の叙述トリックのなので、「非常に微妙な点」なのです。だましは「ある」のははっきりとわかるが、「ない」と言い切るのはむずかしいので、「漠然と」感じることになります。
これは李徴の即席の詩で「旧詩」ではありません。旧詩にはない「だまし」があります。「此夕」「明月」に注目です。
だんだん夜が明けてきます。「残月」は明け方の白っぽい月のことです。
人間が虎に変身するのは超自然現象であり、李徴がなにを言ったところで理由にはなるはずがありません。小説に必要なのは「李徴が人間でなくなる」ことだけであり、虎になる理由など不要で、むしろ生きもののさだめなのだから、理由があってはいけないのです。ここは何事にも理由を求める知識人の愚かさを皮肉っています。李徴が若いとき、そして虎になってから袁傪と出会ったのは奇跡的な偶然ですが、これもまた「生きもののさだめ」なのです。
苦しみが分かって貰えないかと吠えたのは「昨夕」です。詩の「此夕」「明月」は袁傪と別れ、その日の夕方のことです。そこで李徴は完全に虎になってしまうことを予期しており、「不成長嘯但成噑(詩を吟じることなく、吠えるのみ)」と言いました。
李徴が妻子がまだ虢略にいることを知っているのは、虎になってからも様子を見に行ったからです。このことは蓼沼正美氏が1990年に指摘しています。
蓼沼氏の読み方はごく常識的ですが、それができる人がほんとにいないのです。
虎の姿を見せるのは、たしかに李徴が自分で言ったとおりの理由ですが、咆哮の理由は述べていないので、また別でありえます。
これは朝方であり、「白く光りを失った月」は「残月」であって「明月」ではありません。この咆哮は李徴の最後の人間の心、家族への想いや友人への感謝と別れなのです。ちなみに、袁傪は虎に襲われはしたが、虎が本当に李徴だと確認するのはこれがはじめてです。
作者の境遇を考えると、李徴が作品と妻子を友人に託して虎になるのは、中島が病で死ぬことの隠喩でしょう。これは「李徴が虎になった理由」を考えるかぎり決して出てきません。
「誰にも分からない」はずのものに読者はほんのすこしだけ触れることができました。「誰にも分かる答え」が書いてあると台無しになるでしょう。これがだましの力であり、李徴の最後の詩は見事な「第一流の作品」なのでした。
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この三つはすべてことなる理由で吠えていますが、「月に向って」で混同させています。
別れの咆哮の理由を読者が誤解するよう誘導しています。
李徴が人間だったころの作です。
これを見抜けたのは袁傪が李徴より上手の超一流詩人だからです。人間のころの作にはだましがなく、即席の詩にはあったということは、どうも李徴は虎になったことで一流詩人になれたようです。李徴は一流になったので、袁傪も一流だと知っていたはずです。
袁傪は即席の詩も文字に残したので、世に出して評判を取らせるでしょう。李徴もそれを知って虎になったでしょう。ちなみに袁傪の監察御史は結構な位です。持つべきは頭がよく力のある友人なのです。
一流作家はハッピーエンドを好むので、「欠けるところ」=だましで間違いありません。ゼッタイ。この小説だけ読んで一般論がわかるか?というと事実上不可能ですが、「此夕」「昨夕」「明月」「残月」に気づくことは不可能ではないはずです。
だましは一種の叙述トリックですが、推理小説よりはるかに起源は古く、すくなくとも古代ギリシャにさかのぼります。
シェイクスピアや「猿の手」『グレート・ギャツビー』からアニメ映画『リズと青い鳥』まで、だましは一流作品には不可欠な条件です。
一流作家は世界で一番価値あるものを書きたがり、それは友情や家族愛や恋や善といったビビッドなものや記憶、あるいは「運命」や「偶然」といった人知を超えたものです。陰影をつけるため悪を描くことはありますが、自己愛や文字といったフェティシズムは自分だけのことでありきわめてくだらないので、障害物にはしてもテーマにすることはありません。
通俗的な理解とはことなり、李徴は知識人をやめることで一流の詩を書けるようになりました。まあことばを扱う能力は残しておく必要はありますが。作品が書けないのは当然としても、知識人や読書家は頭が悪いので読むこともできないというのも一流作家に共通した認識です。しかし彼らは本の主な買い手であり、公言すると本が売れなくなるのでだまっています。
「旧詩」とわざわざ「旧」をつけるところが最大のヒントなのです。この微妙な違和感に気づくのが、知識人とは違う、生きものの野生なのです…と言いたいところだが、よほどの阿呆な作家でもなければこんなムダな繰り返しをするはずがないのです。
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*でくくった太字部分が原文で傍点を打っていた箇所なのです。順に「さだめ」「人間」「しあわせ」「あさましい」「しるし」「(飼い)ふとらせる」です。
「(飼い)ふとらせる」といえばどんな動物でしょう?猫?いえ、豚です!
豚=「臆病な自尊心」であり、切磋琢磨といっているから、「臆病な自尊心」は才能・技術面なのです。「お前ヘタクソだな」と言われたくなかったので師や詩友と交わらなかったのでしょう。
虎=性情=「尊大な羞恥心」なのです。間違えている研究は多いが、自尊心は性情ではありません。「尊大な羞恥心」は妻子や友人との交わりの面ですが、「友人を傷つけ」とあるから、自分が評価されないのを他人のせいにして八つ当たりしていたのでしょう。
家族を愛し友人と交わり(臆病な羞恥心)、秀でた才能と磨いた「だまし」の技術(尊大な自尊心)こそが、イキイキとした心情を描ける一流作家の条件だという文学論なのです。豚ではなくミスXでなければならないのです。李徴の即席の詩はたしかにそうなっているのですが、文学研究はみな自己愛的で気持ち悪いのです。あと「果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ」は変身に照らした李徴の内省にすぎず、超自然現象を説明するものではありません。
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かつての同輩から拝命したのだから、李徴は一度は都に顔を出したのです。おそらくそのときに袁傪とも顔を合わせたでしょう。
赴任先からさらに「公用で旅に出、汝水のほとりに宿った」。それが一年前なのです。案外最近なのです。地方に派遣されたとはいえ都の役人である李徴の蒸発は袁傪の耳にも入っていたでしょう。
李徴は人を喰っていたのです。
袁傪の姿を認めて「あぶないところだった」と言っているのです。まさか袁傪が来ているとは思わないのです。虎は夜行性とはいえ街路灯もなく「残月の光をたよりに」なので薄暗いのですが、よく気づいたものです。
狩りのときは人間の心は消えているのですが、今回だけは李徴の心がブレーキをかけたのです。李徴はここで「猛獣使」になったのです。
声に「聞き憶えがあった」→李徴がこのあたりで蒸発したということに「咄嗟に思いあたって」→「叫んだ」なのです。袁傪はずっと李徴のことを気にかけていたのです。そうでなければ叢の中から人の声がしても怪しいだけなのです。
「しるし」がひらがなですが、漢字では「記」と書けます。これが「山月記」の題名の由来だと思われるのです。また、地の文で書かれていることはすべて袁傪が(人づてなどで)知りうることであり
「後で考えれば」とあるから、「山月記」は袁傪が見聞きしたものを客観を装って記したものでもあるのです。二人の友情が生んだ合作と言えるのです。
山=李徴、月=袁傪なのです。二人にはことばはもういらないのです。
親友だったはずの袁傪に自作の詩を聞かせていなかったのです。自分が袁傪に及ばないことがわかっていたから見せなかったと思われるのです。
李徴は袁傪に聞いてもらいたかったようなのです。月=袁傪に願いが通じたのです。テクストに偶然はないのです。李徴は親友の袁傪にコンプレックスがあり詩は見せなかったが、最後は彼を求めたのです。とめどなく溢れる腐臭なのです。
全然「共相高」じゃなかったのです。最後までツンなのです。
+"山月記" +"嫉妬" - Google Scholar
+"山月記" +"コンプレックス" - Google Scholar
犬っちは学者ども全員食い殺してやったのです。というか食い殺す前から死んでいるから死体を食うのはハイエナなのです。ミスXにしばかれないと虎にはなれないのです。
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さて、転んでもタダでは起きないユリ豚のいいところなのです。
一流作品では「友だち」「誰か」は不特定ではなく特定の人物なのです。提喩の一種でベーシックな技法なのですが、ほとんどの人はそういう修辞があることすら気づかないのです。
ただ一人さやかのところに来てくれた杏子=「一番大切」な友だち=「誰か」で、「他の誰か」=自分なのです。ウソつきのさやかはまっすぐな杏子にコンプレックスを持っていたのです。まどかや仁美や恭介は「自分を傷つけた」のであまり友だちとは思えなくなっていたようです(さやかは相手を恨んでしまうので、相手を傷つけないよう、自分から離れたのですが)。「わたしたち魔法少女」に「共相高」的なものを感じるのですが、魔女になるのももしかすると悪くないのかもしれないのです。
さやかがバカなのは不動の事実ですが、本当のことを口にするやつはしあわせになれるのです。