記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

中島敦「山月記」は友情と家族愛の話&『魔法少女まどか☆マギカ』のパクリだったのです

引用は青空文庫からなのです。

数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。彼は怏々として楽しまず、狂悖の性は愈々抑え難がたくなった。一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或ある夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇やみの中へ駈出した。彼は二度と戻って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。

李徴は妻子を養うために自分から地方官吏になりました。

翌年、監察御史、陳郡の袁傪という者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於の地に宿った。次の未だ暗い中に出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでしょうと。袁傪は、しかし、供廻の多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥けて、出発した。

袁傪たちが出発したのは「朝」です。

残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟つぶやくのが聞えた。その声に袁傪は聞き憶えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、叫んだ。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁傪の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。

李徴にしてみれば、まさか友人の袁傪が通りがかるとは思ってもみなかったでしょう。

後で考えれば不思議だったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪もうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行を停め、自分は叢の傍に立って、見えざる声と対談した。都の噂、旧友の消息、袁傪が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等らが語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊たずねた。草中の声は次のように語った。

李徴と袁傪はとても親しかったのです。李徴が虎になったのは「超自然の怪異」です。

今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻りに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走っていた。何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。

一年前に出張先でおかしな現象があり、李徴は虎になってしまいました。妻子を養うのを放棄したわけではありません。

しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判わからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

全文でここだけ「我々」が使われており、一般論かつ小説のテーマになっています。李徴が虎になったのは超自然現象であり、理由は「分らぬ」。「李徴はなぜ虎になったのか?」という無意味な問いは必ず誤った答えにたどり着きます。

己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀かなしく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。

虎になることは自体はそんなに不幸でもなさそうです。「誰にも分らない」を二回繰り返しているので、「山月記」で最も重要な箇所です

長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか、と。
旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲るか如くに言った。

「旧詩」に欠ける「何処か」は「だまし」のことです。だましは一種の叙述トリックのなので、「非常に微妙な点」なのです。だましは「ある」のははっきりとわかるが、「ない」と言い切るのはむずかしいので、「漠然と」感じることになります。

そうだ。お笑い草ついでに、今の懐いを即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きているしるしに。
袁傪は又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。

偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
我為異物蓬茅下 君已乗軺気勢豪
此夕溪山対明月 不成長嘯但成噑

これは李徴の即席の詩で「旧詩」ではありません。旧詩にはない「だまし」があります。「此夕」「明月」に注目です。

時に、残月、光冷ひややかに、白露は地に滋しげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。

だんだん夜が明けてきます。「残月」は明け方の白っぽい月のことです。

何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依よれば、思い当ることが全然ないでもない。

人間が虎に変身するのは超自然現象であり、李徴がなにを言ったところで理由にはなるはずがありません。小説に必要なのは「李徴が人間でなくなる」ことだけであり、虎になる理由など不要で、むしろ生きもののさだめなのだから、理由があってはいけないのです。ここは何事にも理由を求める知識人の愚かさを皮肉っています。李徴が若いとき、そして虎になってから袁傪と出会ったのは奇跡的な偶然ですが、これもまた「生きもののさだめ」なのです。

そういう時、己は、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰もらえないかと。

苦しみが分かって貰えないかと吠えたのは「昨夕」です。詩の「此夕」「明月」は袁傪と別れ、その日の夕方のことです。そこで李徴は完全に虎になってしまうことを予期しており、「不成長嘯但成噑(詩を吟じることなく、吠えるのみ)」と言いました。

だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等は未だ虢略にいる。固より、己の運命に就いては知る筈はずがない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐んで、今後とも道塗に飢凍することのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖、これに過ぎたるは莫い。

李徴が妻子がまだ虢略にいることを知っているのは、虎になってからも様子を見に行ったからです。このことは蓼沼正美氏が1990年に指摘しています。

ところが、蓼沼正美さんは李徴の告白のなかの「お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼らはいまだ虢略にいる。」という、これまで誰も注意を払ってこなかった一句に注目して、「李徴は旅先の汝水のほとりで発狂したわけだが、それでは、虎になってしまった後、少なくとも一回は妻子のことを心配して、虢略まで行ってみたことになるはずだ。」と解釈した。蓼沼さんはこの解釈をもとに、「君が南から帰ったら、俺はすでに死んだと彼ら(妻子)に告げてもらえないだろうか。」という言葉に込められた切実な思いを読み取り、李徴の人物像を一新する読み方を提案した。(蓼沼正美、亀井秀雄『超入門! 現代文学理論講座』ちくまプリマー新書)

蓼沼氏の読み方はごく常識的ですが、それができる人がほんとにいないのです。

そうして、附加えて言うことに、袁傪が嶺南からの帰途には決してこの途を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人ともを認めずに襲いかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方を振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、以て、再び此処を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。

虎の姿を見せるのは、たしかに李徴が自分で言ったとおりの理由ですが、咆哮の理由は述べていないので、また別でありえます。

一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

これは朝方であり、「白く光りを失った月」は「残月」であって「明月」ではありません。この咆哮は李徴の最後の人間の心、家族への想いや友人への感謝と別れなのです。ちなみに、袁傪は虎に襲われはしたが、虎が本当に李徴だと確認するのはこれがはじめてです。

作者の境遇を考えると、李徴が作品と妻子を友人に託して虎になるのは、中島が病で死ぬことの隠喩でしょう。これは「李徴が虎になった理由」を考えるかぎり決して出てきません。

己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。

「誰にも分からない」はずのものに読者はほんのすこしだけ触れることができました。「誰にも分かる答え」が書いてあると台無しになるでしょう。これがだましの力であり、李徴の最後の詩は見事な「第一流の作品」なのでした。

💛

己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰もらえないかと。

虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、

此夕溪山対明月 不成長嘯但成噑

この三つはすべてことなる理由で吠えていますが、「月に向って」で混同させています。

自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、以て、再び此処を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。

別れの咆哮の理由を読者が誤解するよう誘導しています。

曾て作るところの詩数百篇、固より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚記誦せるものが数十ある。これを我が為に伝録して戴きたいのだ。

李徴が人間だったころの作です。

しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか、と。

これを見抜けたのは袁傪が李徴より上手の超一流詩人だからです。人間のころの作にはだましがなく、即席の詩にはあったということは、どうも李徴は虎になったことで一流詩人になれたようです。李徴は一流になったので、袁傪も一流だと知っていたはずです。

袁傪は又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。

袁傪は即席の詩も文字に残したので、世に出して評判を取らせるでしょう。李徴もそれを知って虎になったでしょう。ちなみに袁傪の監察御史は結構な位です。持つべきは頭がよく力のある友人なのです。

画像1

うーん、でも、ハッピーエンドじゃん?

一流作家はハッピーエンドを好むので、「欠けるところ」=だましで間違いありません。ゼッタイ。この小説だけ読んで一般論がわかるか?というと事実上不可能ですが、「此夕」「昨夕」「明月」「残月」に気づくことは不可能ではないはずです。

だましは一種の叙述トリックですが、推理小説よりはるかに起源は古く、すくなくとも古代ギリシャにさかのぼります。

この劇におきまして、オイディプスが舞台に登場してまず初めに語る言葉の中に、自分こそ事件の根源に遡って必ず犯人を発見せずにはおかぬであろうという意味のの台詞があります。すなわち彼はまずテバイの人々に対して、「王位がこのようにして覆された時に、ことの究明が行われるのを妨げたのはいったい何であったか」と言って、彼らが事件の起こった直後に犯人を見つけ出すべく真剣に努力することを怠り、真相の究明を果たさなかったことを非難するわけです。そしてその後で彼は、自分はこの犯罪が行われたときにテバイにいなかった、しかし今こそこの自分が、忌まわしい犯罪の源に遡って、犯人を見つけ出さずにはおかないと宣言する。これを彼はギリシァ語で「エゴ パノ」(Ego phano)、すなわち「この自分が明らかにするであろう」という表現を用いて言っているわけです。
ところで、彼がこの「エゴ パノ」という言葉を口にいたしますときに、実は古注の中でも指摘されておりますように、劇を見ております観客は、この言葉の中にもう一つ別の意味を明らかに聞き取る。この箇所に対する古注には「なぜならすべては彼自身の中に明らかにされるであろうから」(epei to pan en autoi phanesetai)と言われています。すなわち「エゴ パノ」というギリシァ語の表現の中に、聞く耳を持った観客は「自分がそれを明らかにするであろう」というオイディプス自身によって意識的に付与されている意味と同時に、「自分が自分自身の正体を明らかにするであろう」というもう一つの意味を聞き取るのです。
(ジャン・ピエール・ヴェルナン、「オイディプス王」の謎とスピンクスの謎、『プロメテウスとオイディプス―ギリシァ的人間観の構造―』、みずす書房)

シェイクスピアや「猿の手」『グレート・ギャツビー』からアニメ映画『リズと青い鳥』まで、だましは一流作品には不可欠な条件です。

一流作家は世界で一番価値あるものを書きたがり、それは友情や家族愛や恋や善といったビビッドなものや記憶、あるいは「運命」や「偶然」といった人知を超えたものです。陰影をつけるため悪を描くことはありますが、自己愛や文字といったフェティシズムは自分だけのことでありきわめてくだらないので、障害物にはしてもテーマにすることはありません。

しかし従来の「山月記」研究においては、中島敦に明確に意識されていたこの知識人という視点は感化されていた。山下真史は「化虎を詩が書けなくなった状態の比喩として捉えると、その理由を『山月記』の中に探すのが難しいことに気づくだろう。」としているが、「山月記」を知識人という観点から照射すれば、李徴が虎になり詩が書けなくなる理由を見いだすことができるはずである。(柳井宏夫、中島敦における知識人の問題:あらたな「山月記」論をめざして、国文学研究 165, 59-69, 2011-10)

通俗的な理解とはことなり、李徴は知識人をやめることで一流の詩を書けるようになりました。まあことばを扱う能力は残しておく必要はありますが。作品が書けないのは当然としても、知識人や読書家は頭が悪いので読むこともできないというのも一流作家に共通した認識です。しかし彼らは本の主な買い手であり、公言すると本が売れなくなるのでだまっています。

「山月記」においては「旧詩」と「即席の詩」があるが、いずれにおいても差異はないはずである。袁傪は直接批評を下してはいないが、李徴の「旧詩」だけでなく「即席の詩」にもやはり「何処か(非常に微妙な点に於て)欠ける所がある」のである。(上論文)

「旧詩」とわざわざ「旧」をつけるところが最大のヒントなのです。この微妙な違和感に気づくのが、知識人とは違う、生きものの野生なのです…と言いたいところだが、よほどの阿呆な作家でもなければこんなムダな繰り返しをするはずがないのです。

💛

しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判わからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きものの*さだめ*だ。自分は直ぐに死を想おもうた。しかし、その時、眼の前を一匹の兎うさぎが駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の*人間*は忽ち姿を消した。再び自分の中の*人間*が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。

いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己は*しあわせ*になれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。

羞しいことだが、今でも、こんな*あさましい*身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐いを即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きている*しるし*に。

人間であった時、己は努めて人との交りを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼い*ふとらせる*結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有もっていた僅わずかばかりの才能を空費して了った訳だ。

*でくくった太字部分が原文で傍点を打っていた箇所なのです。順に「さだめ」「人間」「しあわせ」「あさましい」「しるし」「(飼い)ふとらせる」です。

5 (「あさましくなる」の形で)思いがけないことになる。死んでしまう。
 1 「かひなくて、三月二十日、終にいと―・しくならせ給ひぬ」〈増鏡・春の別れ〉

goo辞書「浅ましい」

「(飼い)ふとらせる」といえばどんな動物でしょう?猫?いえ、です!

ぶーりんassミ

勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。

己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

豚=「臆病な自尊心」であり、切磋琢磨といっているから、「臆病な自尊心」は才能・技術面なのです。「お前ヘタクソだな」と言われたくなかったので師や詩友と交わらなかったのでしょう。

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

虎=性情=「尊大な羞恥心」なのです。間違えている研究は多いが、自尊心は性情ではありません。「尊大な羞恥心」は妻子や友人との交わりの面ですが、「友人を傷つけ」とあるから、自分が評価されないのを他人のせいにして八つ当たりしていたのでしょう。

事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡だったのだ。

家族を愛し友人と交わり(臆病な羞恥心)、秀でた才能と磨いた「だまし」の技術(尊大な自尊心)こそが、イキイキとした心情を描ける一流作家の条件だという文学論なのです。豚ではなくミスXでなければならないのです。李徴の即席の詩はたしかにそうなっているのですが、文学研究はみな自己愛的で気持ち悪いのです。あと「果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ」は変身に照らした李徴の内省にすぎず、超自然現象を説明するものではありません。

💛

いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に帰臥し、

数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。

かつての同輩から拝命したのだから、李徴は一度は都に顔を出したのです。おそらくそのときに袁傪とも顔を合わせたでしょう。

一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。

赴任先からさらに「公用で旅に出、汝水のほとりに宿った」。それが一年前なのです。案外最近なのです。地方に派遣されたとはいえ都の役人である李徴の蒸発は袁傪の耳にも入っていたでしょう。

これから先の道に人喰虎が出る故ゆえ、

その人間の心で、虎としての己の残虐な行いのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤しい。

李徴は人を喰っていたのです。

残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞えた。

袁傪の姿を認めて「あぶないところだった」と言っているのです。まさか袁傪が来ているとは思わないのです。虎は夜行性とはいえ街路灯もなく「残月の光をたよりに」なので薄暗いのですが、よく気づいたものです。

しかし、その時、眼の前を一匹の兎うさぎが駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。

狩りのときは人間の心は消えているのですが、今回だけは李徴の心がブレーキをかけたのです。李徴はここで「猛獣使」になったのです。

その声に袁傪は聞き憶えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、叫んだ。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。

声に「聞き憶えがあった」→李徴がこのあたりで蒸発したということに「咄嗟に思いあたって」→「叫んだ」なのです。袁傪はずっと李徴のことを気にかけていたのです。そうでなければ叢の中から人の声がしても怪しいだけなのです。

そうだ。お笑い草ついでに、今の懐いを即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きている*しるし*に。

「しるし」がひらがなですが、漢字では「」と書けます。これが「山月記」の題名の由来だと思われるのです。また、地の文で書かれていることはすべて袁傪が(人づてなどで)知りうることであり

後で考えれば不思議だったが、その時、袁傪は、この超自然の怪異を、実に素直に受容うけいれて、少しも怪もうとしなかった。

「後で考えれば」とあるから、「山月記」は袁傪が見聞きしたものを客観を装って記したものでもあるのです。二人の友情が生んだ合作と言えるのです。

此夕溪山対明月 不成長嘯但成噑
このゆうべけいざんめいげつにむかい ちょうしょうをなさずしてただほゆるをなす

山=李徴月=袁傪なのです。二人にはことばはもういらないのです。

長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか、と。

親友だったはずの袁傪に自作の詩を聞かせていなかったのです。自分が袁傪に及ばないことがわかっていたから見せなかったと思われるのです。

己は昨夕も、彼処でに向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。

李徴は袁傪に聞いてもらいたかったようなのです。月=袁傪に願いが通じたのです。テクストに偶然はないのです。李徴は親友の袁傪にコンプレックスがあり詩は見せなかったが、最後は彼を求めたのです。とめどなく溢れる腐臭なのです。

当時声跡共相高

全然「共相高」じゃなかったのです。最後までツンなのです。

ユリ臭ムンムンのこちらには嫉妬はないのです

+"山月記" +"嫉妬" - Google Scholar
+"山月記" +"コンプレックス" - Google Scholar
犬っちは学者ども全員食い殺してやったのです。というか食い殺す前から死んでいるから死体を食うのはハイエナなのです。ミスXにしばかれないと虎にはなれないのです。

💛

さて、転んでもタダでは起きないユリ豚のいいところなのです。

これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

己は昨夕も、彼処あそこで月に向って咆ほえた。誰かにこの苦しみが分って貰もらえないかと。

たしかにわたしは何人か救いもしたけどさ、だけどその分、心には恨みや妬みがたまって。一番大切な友だちさえ傷つけて
誰かの幸せを祈った分、他の誰かを呪わずにはいられない。わたしたち魔法
少女って、そういう仕組みだったんだね

劇場版魔法少女まどか☆マギカ』

一流作品では「友だち」「誰か」は不特定ではなく特定の人物なのです。提喩の一種でベーシックな技法なのですが、ほとんどの人はそういう修辞があることすら気づかないのです。

提喩(ていゆ)は、修辞技法のひとつで、シネクドキ(synecdoche)ともいう。
換喩の一種で、上位概念を下位概念で、または逆に下位概念を上位概念で言い換えることをいう。

ウィキペディア「提喩

ただ一人さやかのところに来てくれた杏子=「一番大切」な友だち=「誰か」で、「他の誰か」=自分なのです。ウソつきのさやかはまっすぐな杏子にコンプレックスを持っていたのです。まどかや仁美や恭介は「自分を傷つけた」のであまり友だちとは思えなくなっていたようです(さやかは相手を恨んでしまうので、相手を傷つけないよう、自分から離れたのですが)。「わたしたち魔法少女」に「共相高」的なものを感じるのですが、魔女になるのももしかすると悪くないのかもしれないのです。

あたしって、ほんとバカ

さやかがバカなのは不動の事実ですが、本当のことを口にするやつはしあわせになれるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?