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分かり合えない私たち_「あ、共感とかじゃなくて」展

絵画に興味を持ったことを切っ掛けにイマーシブミュージアムに行った感想記事は書いたんですが、そこからハシゴで東京都現代美術館にて開催中の「あ、共感とかじゃなくて」展に行ってきました。
せっかくスマホにポチポチと感想を打ち込みながら見て回ったので、こちらの感想も記事に起こします。
今でも脳内整理できないままですし、出力してみたら何かすごく長くなってしまったので注意です。

※細かい感想も書いているので、
 見に行く予定の方が事前にこの記事を読むことはお勧めしません。
 是非、素で参戦してきてください。


「共感」展への興味

「絵画に興味持ったんやったら普通は共感展と同時開催のホックニー展の方見に行くやろ!」とツッコまれ確定なのでしょうけれども、今の自分にとっての思考テーマが「群衆の中の孤独」といったものなのですね。
大阪に住んでいた頃には感じなかった孤独感を、何故か1年ちょっと前に東京に引っ越してからはたっぷり感じるので、こりゃあ一体何なんだ?ということが気になるわけです。

実際に街ゆく人たちとは全くもって何の関係性も無くても、日頃交流する同僚や友人が見せる「共感的な振る舞い」を、地域性として勝手に拡大認識(≒期待、信頼)してしまうことで孤独感が薄まるのが大阪。対して、良い意味でもあまり人に興味がなくドライな東京との差が孤独感の強弱に影響あるのかな、特に自分の場合は大阪から東京に引っ越したからな、なんてことを日頃考えているので、「共感」展の方に自分は引き寄せられたのでした。

「あ、共感とかじゃなくて」というタイトルについて

最初にこのタイトルを目にしたとき、突き放す感を覚えたのですよね。「共感とかいいんで。要らないんで。ほっといて。」みたいな。
しかしこのタイトルは「この展示は共感を求めるものじゃないよ、共感しなくても大丈夫だよ」という意味を込めて付けられたものだそうで、優しさの塊でしかなかったのでした。
展示本体?を見る前の時点で「ひとの真意なんて分からない」という事実を突きつけられてしまい、思わず苦笑い。

謎の仕事をしている人

意味がありそうで(おそらく)何もない?4種のブースと1つの柵に囲まれた何か。
各仕事の看板も展示品も何を伝えたいのか分からない。再生されている仕事の動画を見ても、目的も、数字の意味も、動作の効果も分からない。
情報量はやたらと多いのですが、見ている自分にとっては「読み取れる」ものが殆ど無いブースです。

こちらには「仕事には意味があるはずだ」という先入観があるので目だけでなく耳や手を使って仕事の意味を探すものの、どの仕事もそこはかとなく職人の雰囲気が漂っています。目的・手段・フロー・効果を明確化する現代のマニュアル化された仕事とは全く異なるため、意味を探せば探すほど分からなくなります。
とあるブースでは展示されている仕事のアイテムを鑑賞者が使用できるのですが、仕事の謎に加えて、アイテムを使う鑑賞者が何を基準にそのアイテムを動かしているのか分からず…謎は増えるばかりです。

また、再生されている仕事動画が絶妙な長さでした。
意味を探すことに疲れて途中一瞬「こんなん意味ないやろ」という考えや諦めの気持ちが脳裏をよぎるのですが、「いやいや、何か意味があるはず」と打ち消そうとする葛藤も生まれます。
理解への諦めに対する、この葛藤の根っこは何か。
自分にとってそれは「仕事をしている知らない誰かへのリスペクト」かも知れませんし、「分からないことを分からないままにしておく気持ち悪さ」への抵抗かもしれません。
かなりの時間をここで過ごしましたが、自分は最終的に諦めて「なんやよう分からんけど、この人らなりに 意味あること やってんねやろな」という妥協点に落ち着きました。悩んだ時間を含めて、とても自分らしい決着だと思います(笑)

理解することを早々に諦めて 映像を視聴する時間も短く立ち去る人、すぐに立ち去りはしないけれど集中力が削がれているような人もいてらして、自分との違いがまた面白くもありました。

巨人・落とし物・植物

個人的にはこの展示が一番「理解できない人っているよな…」と思わせてくれるものでした。「謎の仕事をしている人」よりも断然、アーティストと自分の距離感を感じましたね。

3つの単語のうち、「植物」しか掴めなかった…。いや、「植物」だって勝手に掴めた気がしているだけなのですが、それ以外の2単語は本当にどこから湧いて出たのか全く分からないし、それを補う情報・推測できる情報は展示の中にも展示説明の中にもありません。なんなら一回展示を見た後に展示説明を読み返したのですが、やっぱり意味が分かりません。
ただ作業場を再現した空間の中にある「どデカい歯」、そして歯との関連が不明な、とある地域。全くもって意味が分かりません。でも、とある地域について知ってほしい・分かってほしいという何かを感じるような気もして、とても困惑しました。

そういえば、子供や言語でのアウトプットに慣れていない・得意ではない人の中には、初対面の人に対しても前提となる情報を省略して、相手が「知っている」前提で話す人がいますよね。
この展示の場合はおそらく意図的に?多くの情報が省略されている?のだと思いますが、子供や言語コミュニケーションに不慣れな人相手と異なるのは、こちらが追加情報を得ようとしてもそのチャンスが無いという点です。
誰かが「残した」情報から理解しようとすることの難しさについて考える機会になりました。

アイムヒアプロジェクト

1)部屋の写真について

カーテンの隙間から覗き込む形の展示だったので死角も多く、ただ壁に掛けてある「乱雑な部屋の写真」を見たとしても感じ取れなかったであろうリアルさや、写り込んではいない「その部屋の中にいる/いた人」の存在を感じることができました。
加えて、覗き行為の形ではあるので申し訳なさというか、罪悪感も。

また、積まれた法律の専門書や試験対策の付箋の内容から「法学徒であった」という自分との共通点を通して、几帳面な性格だったり、お勉強できる人なんだろうなとか、自分に対する理想の高さ、強いプレッシャーを推察することができたように思います。法律を学んでいない人視点では、あの付箋や書籍はどんな風に見えて何を感じ取ったのでしょうか。気になりますね。

飲み物のゴミが散乱した写真でも、健康的なお茶類とストゼロ缶の対比に何か背景があるのだろうかとか、色々考えてしまいました。
ゴミの散らばり方から見るにお茶⇒お茶⇒ストゼロ⇒ストゼロ…といういかにもアルコール依存症になっていく部屋ではなく、お茶のゴミとストゼロ缶がバランスよく?転がる部屋なので、果たしてストゼロは現実逃避の手段だったのか、それとも自分への攻撃性の現れや自罰行為だったのか?

部屋の写真はお一方のものだけでなく、他の方のものもあったようですが、後の方に展示されている古いながらも整理整頓された部屋写真からは、あまり大きな衝撃を受けなかったのでした。田舎の母の部屋に近い雰囲気を感じたからかもしれません。

2)同じ月を見た日

「離れていても、同じ月を見ている」なんて浪漫のある言葉は中国の唐時代から詩に詠われてきた(※)くらい古いものですが、このプロジェクトではお互い知り合いでもない、「同じ月を見ている」人がいることを意識していない、孤独感を抱えた人たちがそれぞれ月の写真を撮り、それが月単位でまとめて月齢順に貼り付けられているわけです。ほぼ同じ月齢の写真は同じ日か誤差程度の時間のズレで撮影されているということですね。
※「望月懐遠」とか「繍袈裟衣縁」とか

写真自体は「孤独の視界」を切り取ったものでしかありません。でもそれを集めたこの展示を見た我々は、悩んだり、孤独を感じて空を見上げたとき・月を見ているときに「他にも同じような人がいるかもな」と見知らぬ誰かに思いを馳せることができる、という、そんな展示でした。多分。
似たような状況の人がいるというのは必ずしも良いことばかりではないものの、ときに「なんで自分だけ」と落ち込みがちな人にとっては、似た状況の見知らぬ誰かを思うことで心の痛みを和らげる効果はありそうです。

加えて、薄暗い展示室内には ゆ~っくりと満ち欠けを繰り返す大きな月の映像が巨大な丸い板に投影されており、同じく巨大な丸いラグの上にはYogibo的なクッションが幾つか離れて置いてありました。
一瞬を切り取った写真を元に「他にもいるかもね」と想像するだけではなく、投影されている月の満ち欠けを今まさに同じ時間同じ部屋、同じラグの上でゆったり見ている他の人が感じられる場です。

こちらでは自分は、"誰か" に思いを馳せるというよりも、「目の前の人この月見て何感じてんやろな」とか「なんで共感展見に来ようと思ったんやろ」とか、写真の展示より更に一歩深く、そこにいる人のことを知ろうとしていました。答え合わせのチャンスなんてほぼゼロにも関わらず。
これは思い遣りでもないし、共感でもないし、敢えて言うとするなら「その人への興味」なんだろうと思います。興味というと面白がっているように見えてしまうかな。言い換えると「その人のことを知りたい」気持ちなのかなと。

人間というのは「社会的動物」といわれます。
社会は1人では構成できませんし、同じ箱に何人放り込まれようともそれだけで社会が成り立っているとはいえません。社会が成り立つための要素とは何か。それは「人間同士の関係性」だそうです。そういや~確か政治哲学者のホッブズさんも「本質構造が同質である人間の関係から成るのが市民社会や」みたいな、そんなことを言っていたと思います。(こんなことなら真面目に勉強しておけば良かったな…。)
「その人のことを知りたい」という気持ちは関係性構築への最初の一歩なのかも知れません。その上で、確実な情報を知ることができなくても言動や姿から自分との共通点を見つけたり相手の背景や心情を慮ったり、そこから自分の行動に反映させるという一連の振る舞いによって、人は孤独ではなくなるということでしょうかね。

ここでの滞在が一番長かったのですが、一番考えすぎてぐったりしてしまっていました(笑)

空をながめる野原

アーティストによる作品ではなく、ここまでの展示を見た人々が「共感とは」というテーマで書いたコメントが壁面に貼られているものです。自分にとっては正直いきなりビンタされた気分でした。
アーティスト(=自分とは異質であるという先入観を持っているもの) 対 自分 ではなく、一般の鑑賞者 対 自分 という立ち位置のものなので「自分の身近な人もこんな風に考えているかもな」という意識を刺激するのかもしれません。理解(共感)している/できている と思っている友人知人の胸の内を見せられた気分になるというか。
実際はコメントした人は友人知人ではないし、仮に友人知人だとしても文章外の思いは当然にあるのですけどね。そういう想像もしてしまいます。

特に記憶に残っているのは、「共感なんていらない」という一文だけ書かれたもの。この方は「共感 ” なんて ” 」と書くに至った経験をお持ちなのでしょう。共感されることによって却って傷付いたことがあるのかも知れません。自分は「適度な共感は思い遣りの種やから~」と思っている人間ですが、こういった自分と異なる考えの手書き生コメントを貪るように読みました。文字が読みとれる範囲のコメント殆どに目を通しながら、知らぬ間に涙が出ていました。
記憶の中の誰かに対する「分かった気になって傷付けてごめんね」なのか、大量のコメント同士でさえ「共感し合えない」を体現している中で 自分に染み付いた「共感の押し付けられ慣れ」との折り合いがつかないのか、涙が出てくる理由には皆目見当が付かずです。なんにしろ、ここでは自分が感受性強めということくらいしか確実はことはありません。

なんだ、自分のことだってよく分かってないじゃないか。

"私たちは黄色い壁ごしに話をしている"

これは、個人的には展示に改良の余地ありと見ています。(いきなり共感の話から離れますが。)ボタンを押しても何がどうなってるのか分かりづらいし…って、ここまで書いて「『あ、共感とかじゃなくて』は そもそもテーマとして分からせる展示じゃないんだった」と思い出しました。
いや、でもでも。やっぱりこの黄色い壁の作品タイトルからするとなぁ…壁越しの何か情報の送信なり受信なりは必要なんじゃないの、とは思ってしまいます。
ということでこの作品に関する感想は一旦保留です。

全体を振り返って

ちょっと時間と思考エネルギーを使い果たしてしまって、一部の展示は感想を書けるほどしっかり見る時間を取れなかったりしましたが、「あ、共感とかじゃなくて」展を通して、自分の場合は
 ・自分の理解の限界を認めよう
 ・とはいえ、想像を諦めたくないね
 ・共感は押し付ける/押し付けられるものではないし、
    100%共感できないなりの尊重の形があるよね
というポイントを読み取った気になっています
⬆これこそ理解の限界(笑)

自分は、「会社のため」でモチベが上がる人がいれば、「社会に貢献している実感」でモチベが上がる人がいて、それとは別に「自分個人の利益」に繋がらないとモチベが上がらない人もいる、とか誰がどんな考えで動くかを日々意識させられる仕事をしているので、読み取った気になっている上記3項目について、とても腹落ちできたのでした。
というか、自分に都合がいいように展示を読み取っているだけのような気もしますけどもね…。こういう答えが無いものは自分の内なるモロモロがモロモロ出てくるのが面白いところでもあります。

いや~自分の表現力が拙すぎて、読んでくださる方が居てらっしゃるとしても足を引っ張っているのが何ともアレですが、結局落ち着くところとしては「コミュニケーションって難しいね」って思います。
単純化し過ぎか。

これだけワヤワヤと長文を書いていますけれどもね、こんな風に自分がこの展示をどう観たかを出力しても それはたまたま出力した自分の観方であって 勿論正解でもないし、他の人がどう観たかに私が合わせる必要もないし、1つの統一見解を出す会議をしているわけでもないので それぞれ好きに観たらええんです。

で。こんなことを言ってしまうとまた文章が長くなってしまうんですが、ふと「このスタンスって "Agree to Disagree" ってやつに近いよな」とか思いました。ご存知ない方向けに補足すると…「同意しないことに同意する」と訳されることが多いみたいですが、簡単に言うと「(敵意や軽蔑無しに、)見解の相違があることを認める」ということです。
見解の違いがあっても、だからといって嫌いになるわけじゃないし喧嘩にもならない、それはそれ、これはこれ、として関係を維持・構築する考え方です。

個人的には、日本においては多数派を正解扱いして画一的になりがちで、かつ自他の境界が曖昧(=共感を求めすぎ、異質物を排除したがる)な人が多い傾向があるように感じているのですが、そこを突くのがこの「あ、共感とかじゃなくて」展ということでしょうか?
他の文化圏ではどうでしょう?この展示が海外の方からどんな解釈をされるのか気になります。「極東の某島国における過剰適応と共感性」みたいな話になります?ちょっと検索してみたところ英語の感想とかレポはまだ見当たらなさそうなので、今後読める機会を楽しみにしています。


な~んて、そんなことを考えていたのでした。
っていうかここにも書ききれないくらいあれやこれやと考えました。本当に収拾が付かなくて、この記事自体も非公開のままお蔵入りにしてしまおうかと思うくらいだったのですが、とっとと思考整理を諦めて公開します(笑)
ええい、もう恥すらも歴史じゃい!!
何なら、自分がこう考えた背景というか、自分は客観ベースではありますが推察と共感が必要とされる仕事(役回り)をしてきた経験についても、ついでにサクッと書こうかと思ったのですが、もうすでにこの記事がしっちゃかめっちゃかになっているので無茶はしない!!これが "今の" 自分のありのままですわ。

またこういうテーマの展示があったら、是非とも行ってみたいです。
というかアイムヒアプロジェクトのアレ(フリーハグのやつ)は行こうかと思ってます。自分は(基本的に同性限定ですが)気分が上げでも下げでも結構ハグする奴だし、ハグしてて「自分が相手を包んでいるつもりで、包まれているのはこっちじゃないか!!」なんて考えたりするし、多分この展示見たら また色々考えることがあって ちょっと疲れるとは思うんですが、でも気になる…。

おわり


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