いまの日本人は「山椒魚」なのか?

日本人の国民的気質

日本人の国民的気質は何だと問われれば、やはり「やさしさ」だろう、と私は思う。私が外国人事件を取り扱うようになったのは15年ほど前だが、その頃、お客さんは、よく私に言った。

「日本人はやさしい。でも、入管はひどい」と。

当時も、もちろんすでにバブル経済は崩壊し、そこから10年は経過していたが、それでも中国その他のアジア諸国よりは日本のほうがまだ豊かで、日本に来て働きたいというアジア人は多かった。

当時の私のお客さんは、そういう人たちだったが、みな、ビザに問題を抱えていた。そして、みな一様に入管の非情さに辟易としていた。

それでも、彼らが何とかして日本に残り、日本で働き、日本で暮らしたいと願っていたのは、日本人がやさしく、日本が穏やかな国だったからだ。

「やさしさ」と「思いやり」

確かに、日本人は「やさしい」ということが好きなのだ、と思う。「地球にやさしい」というあのエコのスローガンがあんなにも普及したのも、「やさしい」という言葉が日本人の心に響いたからだろう、と思う。

日本人は「やさしい」ということに特に大きな価値を認め、意識的に「やさしくあろう」としている、と思う。

この場合の「やさしい」とは、思いやりがあり親切である、という意味である。「思いやり」とは、相手の立場にたって考えることであり、「相手の立場に立ったら、相手はきっとこう感じるだろう」と想像し、一歩先回りして、相手が困ったり、面目ない思いをするようなことがないように気遣って振る舞う、ということだと思う。

この「思いやり」という習慣によって、日本人は、相手と衝突せず、相手に一歩譲って、物事を解決する、ということが得意だ。そして、そうして譲られたほうも、ちゃんとそのことを理解し、憶えていて、いつか、そのうちに、それとなくその恩を返すのだ(そしてそういう「恩返し」も、また日本人は大好きだったりする)。

外国人であるお客さんたちがしきりに「日本人はやさしい」と言っていたことの意味は、日本人に染みついたそうした「思いやり」の文化をそう感じたのだろう、と私は思っていた。

そして、お客さんたちからそう言われることを、私も日本人の1人として、嬉しく感じ、また誇らしく思っていた。

その一方で、非情でやさしさの欠片もない入管を、同じ日本人として、ひどく恥ずかしく、申し訳ないものと感じていたのだった。

日本人から「やさしさ」が消えた?

ところが、ここ数年、お客さんの口から「日本人はやさしい」という言葉を、めっきり聞かなくなった。

そして、それを裏付けるかように、近年、コンビニで働く外国人留学生たちに対して、心ない暴言を吐く日本人が増えているようなのである。

ツイッターなどを見ていても、外国人に対してだけでなく、心ないリプライをする人が増えているように感じられる。なにせ「クソリプ」という言葉が生まれるくらいなのだから、それは事実なのだろう。

そして、極めつけは「ヘイトスピーチ」である。

もちろん、そういう事実を目の当たりにしたり、そういうことが行われているという情報に触れれば、私も気分がよくないし、同じ日本人として恥ずかしい、と憤る気持ちがある。

何なんだ、こういうヤツらは!

そういう激しい怒りが湧き上がってくる。

日本人から「やさしさ」を奪ったもの

だが、ふと思ったのだ。

そういう「心ない言動に走る人たち」に対して直情的に憤る自分自身が、実は、いま「やさしくない」のではないか、と。

「やさしさ」の出発点が、相手の立場に立って考える、という「思いやり」の心なのだとしたら、いまの自分こそが、まさにその「思いやり」に欠け、「やさしさ」に欠けているのではないか、と。

つまり、もし日本人の文化である「思いやり」を持って接するならば、むしろそういう人たちの身になって、そのような暴言を吐いたり、クソリプをしたり、ヘイトスピーチをしてしまう人たちは、なんでそんなことをしてしまうのだろうか、と考えるべきではなかったか、と。

では、そういう人たちが、そんな行動に出る理由は、何だろう?

性格が悪いから?

確かに、それも1つの答えかも知れない。しかし、15年前のお客さんたちは、みんな「日本人はやさしい」と口を揃えて言っていたのだ。そして、もしそういう性格の悪い人が日本人の中にもともと一定数いるのだとしたら、当時だってそういう人たちはいたはずなのだ。

だから、おそらくそうではない。

いまの日本人は「山椒魚」なのか?

井伏鱒二の小説に「山椒魚」という有名な短編がある。

山椒魚は悲しんだ。

で始まる冒頭部分が超有名だったはずで、小学校だか、中学校だかの国語の教科書に載っていたような、載っていなかったような、気がする。いや、あるいは、どこかでそのあらすじだけを耳にしたのかもしれない。それに、どういう結末だったかが、まったく記憶にない。

仕方がなので、買って、確認してみた。

それは、知らぬ間に成長してしまったため、棲み家である岩屋の出入り口に頭がつかえて外に出られなくなってしまった山椒魚が、ある日、岩屋にまぎれ込んだ1匹のカエルに対して、外に出られないように意地悪をする、という話だ。

で、思い出せなかった最後の部分は、次のようになっていた。

2年の月日が経ち、膠着状態だった2匹。カエルは、思わず「ああああ」という嘆息をもらしてしまう。

 山椒魚がこれを聞きのがす道理はなかった。彼は上の方を見上げ、かつ友情を瞳に罩(こ)めてたずねた。
「お前は、さっき大きな息をしたろう?」
 相手は自分を鞭撻(べんたつ)して答えた。
「それがどうした?」
「そんな返辞をするな。もう、そこから降りて来てもよろしい」
「空腹で動けない」
「それでは、もう駄目なようか?」
 相手は答えた。
「もう駄目なようだ」
 よほど暫くしてから山椒魚はたずねた。
「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」
 相手は極めて遠慮がちに答えた。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」

これで、唐突に終わっているのだった。

さて、話を戻そう。この小説の「山椒魚」は、いまの日本人のようには見えないか?

この小説の「山椒魚」は、もともと意地悪な性格ではない。その証拠に、カエルの嘆息を聞き、突如、彼を逃がしてやろうと考えを変えている。おそらく、ハッと正気に返り、本来のやさしさを取り戻したのだろう。

ただ、自分が生涯、狭い岩屋から外には出られないだろうという不幸な境遇に置かれ、まぎれ込んだカエルに意地悪をしてしまったのだ。その気持ちをなんと表現してよいのか、うまい言葉が見つからないが、その気持ちはよく解る。井伏鱒二は、これを次のような言葉で表現している。

 山椒魚は相手の動物を、自分と同じ状態に置くことのできるのが痛快であったのだ。
「一生涯ここに閉じ込めてやる!」

もしかしたら、いまの日本人は、この「山椒魚」のような状態になってしまっているのではないか?

だとしたら、いまの日本人は、いったい何に閉じ込められているのだろうか?

本来の日本人らしからぬ「心ない言動」の溢れる昨今、ふとそんなことを思ったのだった。


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