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ウォーク・ドント・ラン
村上龍と村上春樹の対談本(1981年に出版)
龍氏は「コインロッカー・ベイビーズ」、春樹氏は「1973年のピンボール」発表した頃で、言葉遣いなどもラフで読みやすい。
ブローティガンにあったら、いいにくいこというんですよ。ぼくが、2作目を書いたよ、っていったら、彼がいうのね。要するに、2作目は1作目で修得した技術とイマジネーションで書ける。「きみ、問題は3作目だよ」って(笑)
また、ブローティガンに会って、「3作目を書いてる」っていったら、彼は「うまく書くな」っていうんですよね。ウエルはよくない、オネストに書け、って。「きみは1作目、成功したか」っていうから「成功した」と。「2作目は?」「だいたい、好意的に迎えられた」と答えたら、「きみは、自分の運と才能を登りつめた高い崖の上にいる。そこから先は、もう飛ばなきゃならない。落ちてもいいんだ」——— ぼくは、すごく勇気づけられて、書きつづけたんですよ。
例えばトゥルーマン・カポーティが、ある本の序文にこう書いているんだ。文章を書き始めて文章には「バッド・ライティング」と「グッド・ライティング」の2種類があるってわかった。しかし、それからしばらくたつと、世の中には「グッド・ライティング」と「トゥルー・アート」の違いがあることがわかったってね。
もちろんカポーティの言わんとすることはよくわかるんだけど、現在の文学状況が本当にそんな図式で成立しているかっていうと、僕は疑問だと思う。
頭で考えるでしょう。何かしたいなあとか、きょうはテニスがしたいなとか、きょうはあの子に会いたいなというのは。そういう欲求っていうのは頭で、脳が命令するような欲求なんだけど、ヘロインが切れて、ヘロインを打ちたいっていうのは、何かね、細胞がもうザワザワ、ザワザワ騒ぐんだって。
僕は親父が浄土宗の坊主でもあったんで、子供のころから欲望を捨てて生きていかなきゃいけないって考え方を植えつけられたようなところがあるのね。(中略)
本気で欲しいと思ったものは大抵手に入れてきた。でも、一度手に入れちゃうと空しいんですよ。手に入れたものをわざと無茶苦茶にこわしてみたり、そんな時期もあったな。そしてある時、もうこういう生き方は止めようと思ったんですよ。もう何も欲しがるまいってね。
批評について言えば、この前おもしろいの読んだんだけど、糞投げ競争というのがあるの、シット・スローイングというのね。どこかの小説の中に出てたんだけど、糞投げ競争の本当の勝者は、いちばんたくさん糞を投げた者じゃなくて、いちばん手を汚さなかった者だと(笑)
フロイトというのがぼくはすごく嫌いなんですけどね、精神分析というものがものすごく嫌いなの。ノックもしないで部屋に入ってきて冷蔵庫あけて帰っていくって感じがしてね。帰っちゃってから、おいおい、あいついったいなんだ、ということになる。
うちはおやじとおふくろが国語の教師だったんで、で、おやじがね、とくにぼくが小さいころね、『枕草子』とか『平家物語』とかやらせるのね。でね、もう、やだ、やだと思ったわけ。
でも、いまでも覚えてるんだね、『徒然草』とか『枕草子』とかね、全部頭の中に暗記してるのね、『平家物語』とか。
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