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察する力と、空気を読む力

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こんばんは、遥です☆彡

今朝はけっこうひんやりしていて、私の好きな時期になってきたなぁ、と嬉しい反面、寒暖差で身体はあまり良くない感じです。

昨日は久々に長めのお散歩をしたら、急に歩いたせいか筋肉痛になりました笑

この間、海外の方が日本人の特質として、「政治に対して文句ばかりで、具体的な意見や質問はできないし、話すことも躊躇いがある」という記事をみて、少し感じたことを共有しますね。

政治云々は個々の信条として置いておくとして、
この記事から私が思ったのは、「察する力」と、「空気を読む力」の違いです。

「察する力」
相手が何を考えているか、無意識に何を感じているか、を感じ取る力。

「空気を読む力」
周りから発せられる空気感に対して、自己の感覚を鈍化させて、合わせる力。

こう考えた時、
「察する力」は、相手本位で考えているものの、
「空気を読む力」は、自分本位で考えているものではないか、
と思いました。

どちらが良いとか優れているとか、そういうことを言いたいのではないのです。

日本人には、「空気を読む力」を要求する度合いが、他国と比較したときにとても大きく求められているように思います。

そもそも「空気を読む」という言葉こそ、日本独特かもしれません。

もう少し、具体的に切り込みます。

「察する力」は、能動的で他者に意識が向けられていると思います。
相手がどうしたら喜ぶか、心地良くいられるか、そういったことを自発的に考える力だと思います。

対して「空気を読む力」は、受動的で自己に意識が向いていると思うのです。
どうすれば、周りから非難されずに済むか、嫌われずに済むか、という受動的な守りの発想です。

もちろん、自己防衛力も大切な力ではありますが、
自己防衛を意識し過ぎた結果、守った自分の意見はどこに行ってしまったのでしょうか。

かと言って闇雲に発信したところで、相手を傷つけてしまっては元も子もありませんが…。

先の記事に戻って考えると、テレビしかり、ネット記事しかり、SNSしかり、現状に対する不満は散見されますが、次にどういうことをして欲しい、といった具体的な要望を目にすることは少ないように感じます。

根本的に大切なことは、「自分だったらどうするか」だと思うのです。

とは言え、難しい政治のことは分からないですが、ある程度自分の生活レベルに落とし込んで考えてみることは誰にでもできることな気がします。

それこそ、女性活躍推進と、少子化防止を同時進行で推し進めることは無理があるように感じます。

~女性的立場~
出産・育児をするには、精神的にも体力的にもとても労力が必要です。
社会的に、その女性を助けられる環境が整っているとは思えません。
社会で活躍したい女性にとっては、置いていかれたような気がして失意してしまうかもしれません。
(女性は子どもを産む生産機械か、という声も耳にしますが、産むかどうかは個人の自由ですので、強制されない限り極論的かと思います。
それで言ったら、男性なんて子どもすら産めないわけですから、偉いこと言えませんし、優良な精子バンクを求める女性の声も聞くと、それはそれで男性も傷付くのではないかと思います。ちょっと複雑な問題ではありますが、あくまでも社会制度として考察しているつもりです)

~男性的立場~
もう専業主婦を養えるほど稼ぐことのできなくなった日本経済社会において、共働きでなければ生活が維持できないと思うかもしれません。
子どもは欲しいけれど、金銭的に余裕がないし、これから先失業するリスクがないとも限らない。
またそれらを不甲斐ないと非難される苦しみもあります。男はATMか、という発想もまたあります。

対立させようと思えばいくらでも対立させることができますが、重要なのは男性だけでも女性だけでも、子どもは生まれないということです。
だとしたら、対立を煽るのではなく、互いの意見を交換する場を積極的に設けられるよう外側から働きかけることはできるような気がします。

まさに、YouTubeなどで助産師さんなどが発信していることはとても良いなと思っていて、もっと小児科医や、県議市議などの政治家も取り込みながら、育児をする人たちの横の繋がりを作るキッカケを提供することは、核家族化した社会において、とても精神的に大切なような気がします。

結婚どころか、パートナーがいない私が、子持ち夫婦を想像して考えてみたおおよその結果が上記で述べたことです。
実際の子育ては、もっと壮絶だと思うので、そんな余裕ないよ…という声も聞こえてきそうですが、だからこそその余裕を作るための活動を、子どもがいない私のような人も積極的に考える必要があるように思います。

しかし、この近いところで発生しているものの、全く異なる問題(女性活躍推進と、少子化対策)を一緒にして、一人の政治家が同時に唱えていたりするのです。

また、メディアが同時に避難していたりもするのです。

それはちょっと違うんじゃないのかな~?、と思えるか。
個人的には、女性の活躍推進をしたい理由として、少子化が進む日本において税収が減ることを女性の活躍によって補填したいとの思惑を感じます。
仮にそうであるならば、まず少子化問題を社会的にどうするか、を考えて、せめて人口が減らないよ、くらいのところまで持っていかなければ、活躍する男性も女性もそもそも日本からいなくなってしまうように思います。

私なりの意見なので偏った部分ももちろんありますが、自分で考える力を身に着けることはとても大事なことのように感じます。

そして、家事をしたい男性もいて、仕事をしたい女性もいて、お金を稼ぐことだけが偉いわけではないですから、虐げられてきた活躍したい女性を活躍できるように推進することは良いことですが、かと言って全ての女性を経済的に活躍させようとするのは違う気がします。

また新たな命を、というところに目がいきがちですが、養子縁組や里親制度など、様々な事情によって生みの親に育てられずに施設で育つ子も一定数いるので、今ある命を大切にすることも重要な気がします。
(血のつながりを重視する方はまだ多いとは思いますが、LGBTQがさらに市民権を得た時、同性愛の方のみならず、様々な事情で子どもが生めないカップルが選択できる選択肢として、もっと支援が充実して良いところだと思います。)

それこそ、「察する力」をフル活用して、声なき声を想像することは意義があると思います。
単なる不平不満が渦巻くSNSにも、本当のヘルプはたくさん隠れています。
(私は最近疲れてしまって、あまり見ていませんが…)

そもそも社会は、互助で成り立っていると思います。
支えている部分もあれば、助けてもらっている部分もあるのです。
どうしても、自分が支えている部分ばかりに目がいって、助けてもらっている部分は見えにくくなりがちです。

だからこそ、「空気を読む」社会ではなく、自分が支えている部分をしっかりと自己発信をすることで、相手を助けている部分を相手に分かりやすいようにすれば、自分が助けてもらっている部分も支えている側から声が届くように思います。
そこで、支えている部分も助けられている部分も明瞭にしたうえで、相手も自分も思いやりを持ちながら過ごせる社会になって欲しいなぁと私は思います。
言いたいことを素直に言えるような関係性って言えば分かりやすいでしょうか。

どうしても、攻撃的、防衛的という、まるで闘いのような発想になりがちですが、ともに生きるパートナーとして、自立は無理でも、自律的な発想でいたいです。

誰かに育てられて、ここに生きているのです。
(だからと言って、自ら「誰に育てられたと思ってるんだ!」なんて我が子にいう人には、その言葉をそのままその方へお返ししますが…)

自分の考えを育て、相手の育ててきた考えも尊重しながら、対等に議論ができる”大人”になりたいですね。

疾風 遥

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