2011年3月11日金曜日,あの日日本の真ん中あたりで震度5弱と一晩の停電を経験した誰かの体験記
印象深い出来事や楽しかった1日について主観で語る文章をいくつか書いているのですが,
今回は,体験者として・この時代に生きている人間として語り継いでいかないといけない1日である2011年3月11日の出来事について書こうと思います.
2011年3月11日 13:30~
もう10年前になるので,時間は曖昧ですが….
この日は卒業式だったので,通常の平日より早く家に帰ることができました.そのためこの時既に帰宅しており,自宅に一人,お昼を食べ,テレビをつけPCでDVDを見て…と悠々自適に過ごしておりました.
ちなみに自分は当時関東~中部あたりに住んでおりました(震源からの距離分からなかった.)
14:46 地震発生
PCで動画を見ていたところ,揺れが始まりました.
地震は度々起こるので当初は気にせず.
でもゆるい揺れがなかなか収まらない,長いな,万が一停電してしまったらPCの電源が突然切れるのは良くないかも,と思い,ひとまずPCをシャットダウンすることにしました.
ディスプレイに「シャットダウンしています…」の文字が現れ,ちょうど電源が切れるまでに要する時間が経ったか経たないかのところで,不意にテレビが切れました.本当は部屋の灯りも切れていたのですが,その時は昼間で晴れていたので気づかなかったのです.
あ,停電した,これはいつもより深刻な事態かも,と思ったところで,徐々に揺れが激しくなっていきました.
まさかそんな,いわゆる非常事態にはならないだろうという正常性バイアスのかかった思いを持ちながらも,揺れは人生で体験したことのない程大きくなり,部屋には自分の身長を超える大きさの食器棚があったことから恐怖を感じ始め,始めてテーブルの下に潜りました.
後から知ったのですが,あんなに恐ろしかった揺れにも関わらず,この地域の震度は4~5弱だったのです.最近でも東北で震度6の地震がありましたが,体験された方はどれほど恐ろしかっただろうと思います.地震の揺れの恐怖への意識が変わる出来事でした.
揺れが収まりました.食器棚はそれ自体しっかりした造りで重かったためか,倒れたりすることはありませんでした.助かりました.
しかし数分後また余震が起こりました.最初の揺れほどではなかったかもしれませんが,それでも2011年3月10日までに体験したどの地震よりも大きなものでした.
食器棚のあるリビングを離れて客間へ行くと,揺れで本棚の扉が開いてしまい,文学全集や画集,マトリョーシカ人形が床に散乱していました.
今までそんな事一度もなかったのに.
この光景が,この地震が非常事態であることを強烈に印象付けました.
15:10~
戸棚を片付けて,あとは当時飼っていた犬を安心させて,もしかすると玄関に入れたりしたかもしれません.
念のため家族に無事を知らせた方がいいのでしょうか.
今となってはそれが正しい行動かは分かりません.しかし,家族の安否,自分は家で一人何をすればいいかを知ることが必要だと思い,公衆電話へ向かう事にしました.家はまだ停電していましたし,当時は携帯を持っていませんでした.
公衆電話へ向かう途中,学校の近くで同級生数名に出会いました.その日は早く学校が終わったため,放課後数人で遊んでいたそうです.
さっき地震あったよねぇ,と言いながらその子達とは別れました.友達が一緒にいれば,一人でなければ,あの揺れも少しは怖さが軽減されたかもしれません.
公衆電話のある道路にはちらほら人の姿がありました.やっぱりみんなさっきの地震について話しています.
公衆電話も使えません.どうやら街全体が停電しているようです.
どうしよう.
自分にも家にも被害はない.多分この県内は大丈夫なんじゃないだろうか.いやそんな保証はないじゃないか.もしかすると家でぼんやりしている場合ではないのかも.家族の誰かが被害を受けていたら.
迷いましたが,おそらく携帯電話があるであろう,徒歩10分程の親戚の家に行くことにしました.
16:00~
親戚のご夫婦(母方の祖母の兄弟)は自分を優しく迎え入れてくれました.こちらのご夫婦は祖父母の入院や葬儀の時にもたくさん助けていただいていて,本当に親切な方々でした.ありがとうございました.そして非常事態とはいえそこまで行動できる当時の自分の行動力すごいな.
携帯を借り,母に連絡をします.
母は無事でした.やはり大きな被害はなく,職場ではお客様(のような立場の人)を帰したところとのことです.
これから帰るけど,街も停電しているから遅くなるかも,落ち着いて待っていてね,お姉ちゃんとも連絡とってみるね,と話して電話を切りました.
停電し,携帯も持っていない状況の中で,自分が震災後外の情報に触れられたのはこれが初めてでした.もう記憶が曖昧ですが,この時親戚の家でかかっていたラジオから,震源が東北であること,津波が起こったことを知ったのかもしれません.
16:50~
帰宅.まだ明るい夕方.
非常事態だけど自分にできることもない.
こんな時に普通の生活してていいのかなと思いながらも,それでも犬のトイレはさせてあげないとと思い,多分犬を連れて散歩に出たと思います.のん気にも思えるけれど,犬に散歩って何より必要なものだものね.
非常事態だけど何ができるわけでもなく.
母が帰ってくるまで待つしかないと思い,夕方の陽でスケット・ダンスを読みながら,朝ごはんの残りの卵焼きをつまんだりしました.こんなことしていていいのでしょうか.
まだ停電は復旧しません.思えば,暖房が無くてもなんとか平気な季節で良かったと思います.
18:00
母が帰ってきました.
もう覚えていないのですが,街が停電している時は信号機も切れてしまうのでしょうか.分かりませんが,停電直後の山道を慎重に運転して戻ってきてくれました.
当時は,自分・母・姉・ペットの犬の3人と1匹で暮らしていました.
当時姉は隣町まで電車で通っていましたが,電車も止まっています.そのため,姉を迎えに隣町まで車で迎えに行くことに.徐々に暗くなっていく家に一人取り残されるのは嫌,と自分もついていきました.今思えば,犬,ごめん….
しかし,停電した街を慎重に走らせていくうちに,隣町に入る間もなく姉と連絡が取れました.なんでも,友人の家族の車に乗せてもらい,家まで送ってもらうとのこと.
そのまま母と元来た道を引き返しました.
18:45~
家に帰ってくるとすっかり暗くなっていました.
母の携帯のワンセグでニュースを見ました.ガスコンロでお湯を沸かしました.オール電化なるものがCMで流れていたけど,この時ばかりはガスが通っていて良かったと思いました.
電気が使えないから夕ご飯は簡単なものにしないとね,と母と話しました.卵焼きをつまみ食いしたことを申し訳なく思いました.
電子レンジは使えないもののコンロが使えるため,炊飯器の中の冷ごはんと沸かしたお湯でお茶漬け,冷蔵庫にあるモッツァレラチーズと醤油で和風カプレーゼ(のようなもの)を作る事にしました.
ろうそくの明かりの中で母は器用にチーズを切っています.
すると姉が帰ってきました.家族全員が揃いました.
姉のいた街は自宅周辺よりも栄えていたためか,停電もしていなかったようです.そのため姉が帰り道で偶然買っていた梅味のポテトチップスも夕食に加わりました.
21:00
起きていてもすることがないのでかなり早く寝たように思います.
普段寝ている2階の部屋は大きな衣装箪笥や本棚があるため,何かあっても逃げやすい1階に布団を運びました.
記憶がもうおぼろげですが,この日は定期的に余震がありました.布団に入った時にも一度あったように思います.真夜中にも大きく揺れて,一瞬目が覚めました.
2011年3月12日 7:00~
土曜日だったけれど,これが普通の平日ならどうなっていたんでしょう.
母は既に起きていました.電気は夜中の3時ごろ復旧したそうです.居間の電気が付き,テレビでは昨日のニュースが流れていました.
しばらくすると,昨日電話を借りに行った親戚の方が炊き込みご飯をもってきてくれました.なんでも停電が直った時から目が覚めてしまったんだとか.
少しずつ日常が戻ってきました.
といっても,日本はこれから津波被害,福島第一原発,計画停電,…と向き合うことになり,とても今まで通りとはいえない日々を送ることになるのですが,少なくとも,揺れの中1人で過ごした時間が少しずつ離れていきました.
ここまで読んでくれたあなたがだいすき!