子どもと学び、子どもに学ぶ~神経発達症(発達障害)とともに歩む
こんばんは。お元気ですか(*^^)v
難病を生き抜く医学部卒の音楽クリエイター、Koki Kobayashiです。
今日は「子どもと学び、子どもに学ぶ~神経発達症(発達障害)とともに歩む」と題してお書きしたいと思います。
ちょっと長い記事ですが、発達障害に関心のある方にはぜひお目通しいただけたらと願っています(*^_^*)
よろしくお願いします。
錯綜する「神経発達症」と「発達障害」
現代では神経発達症は医学用語、発達障害は教育の術語です
こんにちでは「神経発達症」というのは医学用語でして、厳密には文部科学省や学校教育で言うところの「発達障害」とは異なる術語です。
精神医学でも昔は「発達障害」という言葉を使っていましたが、今ではそれらは基本的に「神経発達症」という診断カテゴリーに収斂されています。
今は精神医学や臨床心理学も過渡期にありますので、専門家でも「神経発達症」と言ってみるかと思えば「発達障害」と言ったりもしますので、当事者としては混乱してしまいますよね。
文部科学省による「発達障害」は、文科省のホームページによると、次のように定義されています。
「発達障害とは、発達障害者支援法において「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして法令で定めるもの」と定義されています。_____文部科学省「発達障害について」より引用しました。
こうしてみますと、同一の神経発達の症状を持つ子どもたちを見る観点が、医学と教育系の法令との間で、かなりのタイムラグがあるようにも思えますね。
わが家の家庭療育を分かち合うために大前提となること
先に申しましたように、何と言っても、今は「発達障害」という言葉が「神経発達症」という医学用語に置き換わっていく過渡期にあります。
ですから、「うちの子は神経発達症と医師に告知されたわ」という方もいれば、「うちの子は学校の先生に発達障害って言われてね、療育に行きなさいって言われたわ」なんて親御さんもいらっしゃるのですよね。
加えて、今回の記事で私がわが家の家庭療育をお書きするにあたって、初めに一つ明確にしておきたいことがあるのです。
それは、精神医学や臨床心理学には、自然科学では割り切れない世界があるということです。
そしてわが家では、その自然科学的ではない「臨床精神医学」や「臨床心理学」の知見を活用しながら、子どもたちの教育に親が携わりつつ、親もまた子どもたちから学ぶことの多い日々を送っているということです。
精神医学や臨床心理学は厳密には自然科学ではない
「自然科学的とはどういうことか?」と書き始めると大変なことになりますが、要するに自然科学的というのは「ある試行や実験や研究結果について、同一の条件の下でそれをもう一度行うなら、誰がそれを試みても、先行する研究結果と同じ成果が挙げられること」です。
これを自然科学の「再現可能性」と言います。(←ここでは理論物理学や量子力学までは敢えて話を広げません。ご容赦くださいませ)
この自然科学の再現可能性というのは、どうも精神医学や臨床心理学とは相性が悪いのですね。
それはなぜかと言うと、自然科学が研究の相手としている対象が基本的には人間のこころや精神ではないのに対して、精神医学や臨床心理学が研究対象としているものが「人間のこころや精神」だからなのです。
そして、ひとのこころや精神というのはひじょうに深淵な世界で、追求すればするほど謎と発見に満ちた、きわめて摩訶不思議な世界なのです。
精神医学も勿論「医学」という「科学」を標榜していますから、脳を研究したり神経ホルモンとか脳腸相関を追求して、どうもこころの健康にはセロトニンやオキシトシンや安定した量のドパミンやノルアドレナリンなどが欠かせないといった「ある程度自然科学的な」研究成果を挙げてはいるのです。
心理学にも行動主義という分野があります。これはひとのこころを直接観察する代わりに、ひとがある実験や刺激に対してどのような反応や反射を示すかを調べて、人間の行動形態や行動様式から内的な世界を推論したり調節しようとする学派でして、これもまた「ある程度」自然科学的なのです。
どんなに人工知能が発達しても、AIが精神科医や臨床心理士(≒公認心理師)にとって代わるのが難しいとされる分野が「医師や心理士の患者に対するコミットとムンテラ」ですね。
知能検査でも、どんな人がどのような態度で被検査者とラポール(あたたかな関係)をもって検査をしたかで、結果に大きな違いが出ることがわかっているのです。
神経発達症(発達障害)とともに歩む
神経発達症(発達障害)というレッテルに振り回されることはない
この話をすると長くなりますので、今日は精神医学に基づく概念である「神経発達症」や「発達障害」というものは、自然科学できちんと説明し尽せるものではないということを皆さまと分かち合いたいと思います(*^^*)
したがって、もし私たちやその子どもたちに「神経発達症」や「発達障害」という診断(アセスメント)がついたとしても、その名前に過度に振り回されて将来を悲観することはないのです。
なぜなら、こういった精神医学や臨床教育学の概念というのは、今のところ仮説ですからね。
ある子どもに自閉症スペクトラムだとかADHDとかといった名前がついたとしても、癌のように「ここに腫瘍があるからこれは癌だ」という風に臨床医学的に特定できる因子が、脳にもホルモンにも臓器にも神経にも一意に定まらないのですから。
診断名に振り回されることなく、今ここの本人の「生きづらさ」を緩和して、当事者の親や子どもがより生きやすく、できればその人生を楽しんで生きることができるように、その「障害」の傾向と対策を考えていければと私は思います。
娘たちはしまじろうが大好きです(*^^*)
わが家では、長女が四歳になる2022年の10月から、某社のしまじろうの通信教育講座にお世話になっています。
娘たちには、すでに児童精神科医の主治医によって、「自閉症スペクトラム」という立派な診断名がつけられています。
長女は児童相談所の知能検査(田中ビネー)受検を経て、今では療育手帳も持っています。
長女の知能につきましては、WPPSIなどの知能検査によると大きな凸凹が見られるということで、二歳半から七歳にまたがる境界域(グレーゾーン)だとされています。
長女には、そのほかにもいろいろと生活上の困りごとや精神神経症状がありまして、さまざまな所見や因子を診察された児童精神科医の先生が、長女にASD(自閉症スペクトラム)という診断をお下しになったのでした。
自閉症スペクトラムの長女にも素晴らしい特質が無限にあります!
父親の私から見ても、確かに長女には自閉症スペクトラムを思わせる所見がたくさんあるとは思います。
しかし、同時に、娘たちにはとても素晴らしい特質が備わっています。
今回は長女のことを中心にお書きしますね。
親馬鹿ぶりを発揮しますが、何とぞご容赦くださいませ。
長女が二歳にしてピアノを弾きながら作曲したこと。
知育玩具のレゴやジスターでとても独創的で素晴らしい作品を作り上げることができること。
娘たちの持つ類まれな集中力。
長女が四歳にしてすでに風景構成法のような構成された絵を自発的に描いたこと。(←この絵のコピーを主治医が保存しているくらい見事な風景でした)
娘たちは二人とも本を読むことが大好き!
しまじろうを父親の私と一緒に自ら進んで学びたがる学習意欲とその知的好奇心の素晴らしさ。
両親が英語を話すせいか、娘たちも自発的に英語を学びたがり、今ではしまじろうのEnglishの教材で家族一緒に英語を学んでいること(^-^;
そのように親子関係や家族力動を持っていく娘たちのレジリエンスと底力。
何よりも、娘たちがとても素直で優しくて、いつも笑顔と安心しきった甘えん坊ぶりを輝かせていること。
子どもを肯定的な眼差しで見て愛すると、子どもの眼が輝きます
神経発達症の発達特性をひとたび否定的な眼鏡を通して見れば、それは「自閉症スペクトラム」や「ADHD」、或いはいわゆる「ギフテッド」の特性ということにもなります。
ここには記しませんが、娘たちは社会に対する適応にも難をかかえていますし、ふたりとも乳児期からすでに落ち着きがなく、不眠がちで、こだわりが強く、かつ衝動的で極度の感覚過敏でもあったのです。
私たち夫婦は、そのような娘たちをとにかく愛で包むようにして、褒めて育ててきたつもりです。
私の胸の中には、親族の中では私の唯一の味方だった祖母の優しさとあたたかい愛情の面影が残っています。
ですから、私は今も、祖母が私にしてくれたように、「めいちゃんは、すごーく、すごぉーくっ、いい子だね~ぇ(笑)」とか「みきちゃんがぁ、あら可愛いっ」としょっちゅう言っては娘たちを笑わせているのです。
私たち夫婦はともに○✖サバイバーですから、頼れる親族というのがありません。
ですから、娘たちは祖父母と直接会ったことがないのです。
そういう養育困難な家庭状況の中でも、子どもと親の間に愛着を結ぶことは出来ると私は思います。
同じ子どもに対しても、どのような眼差しで相対するかによって、その子の見え方や、その子の輝き方というものは、全然変わってくると私は考えています。
子どもと学び、子どもに学ぶ
親御さん御自身の精神的な健康を取り戻しませんか(*^^*)
子どもを心から愛するということができるためには、まず親が自分の傷やトラウマを克服していて、自分を愛せるところまでたどり着いている必要があります。
親自身が過去の親との関係に傷を負ったまま手当てがされていなかったり、子ども時代のトラウマに囚われていますと、目の前の自分の子どもをあるがままで愛することは難しいでしょう。
子どもが発達障害であろうとなかろうと、育児は大変なものですよね。
しかし、例えばご主人に協力していただきながら、できたら行政や地域社会の支援なども仰ぎつつ、孤独な育児さえ出来るだけしないようにすれば、育児の中で親が子どもの優しさや愛情に癒される思いがすることも稀ではないと思うのです。
勿論、あまりにも親御さんのトラウマやインナーチャイルドの傷つきが大きい場合には、その道の専門家の助けを仰いだ方が良いかもしれません。
そういう時には、精神科医の先生や臨床心理士や公認心理師の先生方は、孤独に喘ぐ親御さんを助けてくださるかもしれません。
アロマテラピーやBachのフラワー・エッセンス(レメディ)、あるいは漢方薬なども、親御さんの辛さを緩和してくれると私は考えていますし、わが家でも実際にそれらのセラピーを親自身が実践しています。
それらの代替療法は精神医学とは異なりますが、時として精神医学による効果以上の威力を発揮することもあると私は思います。
しかし、何より大切なことは、私たちが自分の子どもと学び合う道を歩むことでしょう。
子どもは、色眼鏡を外して愛していますと、ほんとうに多くのことを教えてくれます。
わが子に学びつつ、親のインナーチャイルドの声にも耳を澄ませたい
私たち親は、目の前の子どもと向かい合いつつも、自らの内なる子どもの声に耳を澄ませている必要があるようにも思います。
私たちが健やかに育児をするということは、外なるわが子のあるがままを受け入れて、その子をありのままに愛するということと、自らの内なる子ども(インナーチャイルド)の声に耳を澄ませて、その子どもに学ぶということの両面を含むものではないでしょうか。
トラウマ・セラピーやタッピング(TFT)やバッチ博士のフラワー・エッセンスのお話は、また機会を改めますね(^-^;
発達障害と診断されたり神経発達症と告知される子どもたちが、いま医療と教育の現場で激増しています。それだけ辛い思いをしている親御さんやお子様たちが今の世の中には多いのでしょう。
しかし、未来は必ず拓けます。私たちが家族一丸となって道を未来に向けて切り開く覚悟と意志が定まっていれば、私たちの未来が美しく輝いたものになることはもう約束されたようなものではないでしょうか。
英語のことわざにも「意志あるところに道がある」と言いますよね。
Where there is a will, there is a way. ですよね(*^^)v
皆さま、道は必ず未来へ向かって開けますから、ご一緒にファイトです!
今日の記事は本来なら二つの記事に分割して掲載すべきだったかもしれませんが、話の一貫性を保たせるために、敢えて一つの記事にしてアップ致しました。
冗漫に過ぎた点の数々、何とぞお許しを。
以上、「子どもと学び、子どもに学ぶ」と題して、子どもを愛することは親が自らを愛することと不可分であることについて、長い記事をお届けいたしました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!感謝します!
Koki Kobayashi
サポートしていただけたら感謝の極みです。頂戴したサポートはクリエイターとしての私の活動資金に使わせて頂きますが、同時にまた、私が協同しているこども食堂への寄付にも充当させていただきます。その子ども食堂はGhana出身のトニー・ジャスティスさんが運営する「ノヴィーニェ」です!