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人に否定されるのが極端に怖かった

昔から、些細なことでも人から「間違っている」「おかしい」と否定されることが極端に怖かった。

最近もとあることで、私のいない場所で偶然私のことを「遅い」と知人が話しているのを聞いて、ドキッとしてしまった。
私はひとつ間違いを犯したら、もう私という人間すべてがダメだといわれている、そして、実際にダメ人間なんだと自分で思い込んでしまう節がある。

だから、そんなことを言われないように(否定されないように)、なるべく人と関わらずに生きていっているのが実状なのだけど。
※そのため、ツィッターや他のSNSはやっていないというか、できていない。noteは楽しんでいるけど、そういう意味では頑張っているし、温かい土壌があるから救われてどうにか生息させてもらっている。

でも今回、この考え方(=生き方)をこの先も続けていくのはやっぱりしんどいなあと改めて思った。
だから、どうしてこんなに人に否定されることに過敏なのかと、少しネットで調べてみた。

すると、育ってきた環境に影響を受けているとのこと。
私は子どもの頃、父親に怒られる時はいつも人格ごと否定されていた。
「お前はだらしない」「お前は抜けてる」「お前は頑固で言うことを聞かない」「お前はどうしようもない」「それはうそつきや」「そんなことも知らんのか(できないのか)」

父親の思っている通りにできないと、小さなことでもものすごく否定されたように覚えている。
反対に、褒められたことなんてほとんど記憶にない。
だから、否定されることに強烈に恐怖を植えつけられているのかもしれないと思った。

しかし、冷静に考えてみれば、どんな人間であれ、誰からも一度も否定されない人なんておそらくいないだろう。
どんなにデキる人だって、欠点や短所は持ち合わせているはずだ。それがどれだけ些細なものであっても。

「あの人のおおざっぱなところはどうもねえ」「その人って、ちょっと人の話を聞かないところがあると思わない?」と言われているのを偶然知る(聞く)度、「ここ、ホコリが残ってるよ。ちゃんと掃除して」「誤字脱字が目立つよ。もっと丁寧に仕事して」と直接言われる度、いちいち「あー、私はダメなんだ! もう生きている価値がない」とくよくよ悩んでいたらキリがないし、その必要はない……と客観的に見れば思う。

そして、反対に言えばだ。どれだけ要領の悪い、不器用な人であっても、必ずいいところもあるはずなのだ。
「優柔不断だけど、思いやりがある」など。決断力があるのも大切だけど、生きていく上で思いやりも同じように大切だと思う(個人的には)。

ということは、私にだって絶対にいいところがあるはず!
何をするにも行動が遅いのは自覚している。それでも、なかなか直らないけど……。
遅さは、人の迷惑にならない範囲におさまるよう努力しなければならない。改善していかなければ。
しかし今回、指摘を受けたのはそれだけだ。それ以上勝手に範囲を広げて、何もかも自分のことをダメだと思う必要はまったくない。

こういうのを「認知の歪み」というのかな。

私だってこんなだけど(……と言ってしまいがち)、頑張っている。双子を産んだ。帝王切開を経験した。双子を育てている。2歳の娘のことだって、これでも(……と言ってしまいがち)あれこれ良いように考えている。

もっと堂々と、胸を張って生きていいんだ。……あー、自分に自信を持つってこういうことかな?

――と、ずっと自信がほしいと思っていたけど、初めて思い至る。
歳や経験を重ねることで、気づけることって本当にたくさんあるんだな。歳は自分でコントロールできないから、やっぱりもっといろんなことを経験して、人間としてゆたかになっていくことが大切かもしれない。

前述した父親の影響(と生まれ持ったものもあるかもしれない)で、私は自分に自信がない。
けれど、子どもたちに物心がつくまでには(もう上の娘はちょっと遅いかも……)、もっと自信を持って人前でも「ありのままの自分」でいたい。……って、目標はエルサか(余談:2の映画を観たい)。

タイトルははじめ、「人に否定されるのが極端に怖い」としていたけど、今回ひとつ前に進めたと思うので「怖かった」と過去形にした。

お読みくださってありがとうございます!