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実感するから 本当の意味で腑に落ちてくる…

『臨済禅の学び方』《二時間講義》から 自分の人生経験を通し 腑に落ちたこと

『麻三斤』…の 数々のお話しから·····

・ものごとは そのまま在るのみ、
人の思考を通ると 歪んでしまう。

・人の心で あれこれ考えると
人の憶測が それそのものを曲げてしまう。

・理解する、とか 理解出来ない、ということ自体無い。
(理解する必要は無い)

・“美味しいもの”  “好きなもの”  それらには理由がない。
考えて好きになるものでは無い。

・それそのもの、の意味を考えるのではない。
それそのものをそのまま 感じる。

それそのもの、を 自分の体験を通じて感じる(読む)。色んな感じ方、見え方、捉え方があり、どちらが正しい、ということにはならない。《人によって生を受け それまでの体験には違いがあり、実感に違いがあるのは必然》どちらも在る。ただ在る。解釈するものでは無い。

・『即心是仏』~まさに、他ならぬこの心こそが仏~

・この心こそが仏であると信じる。疑問を持ったり、分かった、分からない、迷っていても、迷っていなくても、 皆 仏なのです。

・何らかの働き、動きがあるのが 仏。

・洞山和尚、因みに問う。『如何なるか是れ仏(仏とは何でしょうか?)』と。山云わく、『麻三斤』と。

《この意味が無いように見える『麻三斤(僧が昔から身につけていた衣、単位)』の答え、は【動きであり働き】。『麻三斤』の言葉に意味がある訳では無い。声、音、と同じ。【動きであり働き、声、音】とは あなたの悟りのために在る言葉。

・考えてはいけない、(自分の)実践に重ね、聴き取り、感じる。

・人によって考え方には違いがあり、一人の人を見て見ても常に変化していて無常にあることが分かる。

・ただ 味わいなさい。…と言われても どれを食べても美味しいという訳ではありません。“曲(その人なりの思考)”を知らなければ美味しさは深まることはありません。産地やそれがどんなものなのか知ろうとする“学び” は必要です。しかし囚われないこと。味わうのは果実(それそのもの)、拘りを捨てて一体となること。

・馬鹿になって修行します。でも、やっぱり果実の成る樹を知ること(学び)は必要です。


***

『考えるな感じろ』確かブルスリーの映画での言葉だったとおもうが、カンフーの所作の中での言葉ではなかっただろうか?あれこれ考えてしまうのでは無く 感じるまま 行動(カンフーで言うところの攻撃と守りの所作)出来る、ということが 心地良さを生み続けられる(攻撃と守りが上手く入ったりかわせたりすること)ように感じる。

そんな風に感じるままに行動すると 人と生きてゆく中で突き当たるのが “感じる感覚”の違いから 何らかの摩擦とか衝突が起きる、こと。そこになんとも言えない不快感が生まれる。

何も考えず、感じる感覚で行動を生んでゆくことに個性が現れ、“曲” を入れることで自分の不快感(何らかの摩擦や衝突)が軽減されてゆく。人と生きる、とは、同じ学びの中に居ない人達とも何らかのまとまりを作って人間社会の中で営む必要がある。

自分の取り組みたいことに邁進してゆく。そして 人と生きる中で賢く 人生を謳歌してゆく。

仏様の教えは いまに生きるために参考になる言葉が沢山散りばめられているようで参考になる。



↑↑↑これら文字にする私の言葉にも 講師の先生の言葉が私の心を通って生まれたものです。ですから 同じものを多くの人が聴けば その人の心の残るものは人の数分だけ生まれることもあり、それはそれ…ということにもなるんですね。

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