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どうして勉強しないといけないの?

先日常磐線の特急列車に揺られ微睡んでいると、後ろの席から『どうして勉強しないといけないの?』と、あどけないながらも多分に悲しみのこもった声が聞こえてきた。
そっと座席の隙間から後ろを覗き込むと、某N塾の特徴的なバッグを抱えた小学生が母親と思しき女性と並んで座っていた。女性は『お受験のためには頑張らないといけないのよ』と答えていたが、少年が納得のいく答えではなかったに違いない。
少年時代の切実な疑問に対して、大人からピントのずれた答えが返ってきたときの言葉にできない歯痒い気持ちを思い出しつつも、自分ならどう答えるだろうかと考えさせられた。

そもそも一口で勉強と言っても、人生のフェイズによってその意味合いは大きく変わってくる。
細かく分けるとキリがないので、ここでは高校生までの勉強と大学や社会に出てからの勉強で区分してみる。両者の違いは、前者は環境に勉強することを強制させられるが、後者は自ら必要性を感じ学ぶことにある。
本来であれば義務教育は中学までであり、高校生も後者であるべきだが、実情は高校生も前者とするのが自然だろう。
常磐線の少年は言うまでもなく前者だが、彼らは何のために勉強するのだろうか?

多くの保護者は、『受験のため』『将来の安定のため』『大人になればわかる』などと答えるのではないだろうか。
もちろんこの答えも決して間違いではなく、勉強が重要なことであるのは疑問の余地もないが、少年が聞きたかったこととはずれている。
少年がかつての自分と同じ気持ちでいたとするならば、本当に知りたいことは『なぜ受験が必要なのか』『なぜ勉強することが将来につながるのか』であり、高校生にもなれば『この勉強は社会に出て役に立つのか?』という新たな疑問も出てくるだろう。

『なぜ受験するのか』『なぜ勉強することが将来につながるのか』
この疑問に端的に答えるとすれば、『日本が学歴主義社会だから。』となるだろう。では学歴主義社会では、学歴の中に何を見出しているのだろうか?
それは、“正しい努力ができるか”ではないかと筆者は考えている。
努力を評価するなら他の項目でも良いはずだが、現在最も一般的に全員を同じ基準で評価できるものが学力なのである。
高校生までの勉強は答えが存在するものであり、無闇に詰め込むのではなく、一つ一つ理解を深めて積み重ねることができればある程度の学力は獲得できる。こうした勤勉な性質を評価しているのではないだろうか。
つまり少年の疑問に対する答えはこうである。
『頑張り屋さんだって世の中に認めてもらうためだよ』。

最後に『この勉強は社会に出て役に立つのか?』という疑問に対してはどうだろうか。
極論を言えば、『その勉強の内容は役にたない』。
当然読み書きや計算などは日常的に役立つが、微積分や化学式、古文・漢文などを社会に出て使う人は一握りだろう。しかも、大学や社会で使っていくためには高校生までの知識はあまりにも浅いもので、結局のところ役立つとは言い難い。
しかし、本当に重要なことは先にも述べた通り勉強の"内容''ではなく"方法''である。
正しい勉強の方法を学んだ先に大学以降の学問があり、社会に出てからスキルを磨くための学びがあるのだ。

世の中の保護者や教育者の方々には、くれぐれも目先の内容を求めた詰め込みではなく、方法を重視した学びを指導してほしいものである。



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