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フィルターのない世界に触れること

半月ほど前に息子の授業参観があった。

元々いくはずだった妻が仕事の関係で
どうしても抜けられなくなり
私が行くことになった。

毎年なんだかんだで息子の授業参観には
行っているのだが、
毎回私はモヤモヤしてしまう。

もちろん息子にはこんなことは言わないが、
実は私は授業参観に行くのがとても嫌なのだ。

別に学校での息子を見たくないわけではない。
むしろ、家とはすこし違う息子を見るのは
とても楽しみだし、
息子がクラスメイトとどのような関係性なのかは
親として気になる。

では、授業参観の一体何が嫌なのかというと
他の親を見るのが嫌なのである。

これは自分が親になって授業参観に行くまで
気づかなかったことであるが、
世の中には本当に驚くほど色んな親が
いるのである。

保育園との親の違い

我が家は息子も娘も1歳になった歳から
保育園に預けていたので、
これまでも保育園のイベントで他の親と
接することはあった。

だが、そこで接する親の数は
それほど多くはなかったし、
別にお互い仲が言い訳ではないが
皆それなりに常識がある感じがして
そんなに嫌な感じを覚えることもなかった。

保育園に子供を預けるには
両親ともに働いていることが前提になるので
それ故に他の親の方ともシチュエーションが
似ていることも一つの理由かもしれない。

だが、当時の私はそんなことを知る由もなく
息子が小学校に入ったら保育園の延長のような
感じであろうと思っていた。

そして、今から4年前に息子が入学した。

入学式で撮影が終わったあと、
子供たちと一緒に教室に行ったときが
初めて学校の教室に親が行く機会であった。

初めての教室に入り、
机に置かれたお道具箱や書類に
興味津々の子供たち。

当時はコロナ1年目だったこともあり
親は皆教室の外側で距離を取りながら
見ることになっていた。

しかし、先生が机に置かれたものの説明を
し始めたとき、
一人の親がおもむろに教室に入ってきて
自分の子供に指示をし始めたのである。

私は心の中で
「おい、話を聞いとったか?今は入ったらアカンねんで」
とツッコむが、当然声には出さない。

すると、その一人に流されたのか
数名の親が同じように子供のところに行き
先生が指示した内容を一緒に確認し始めた。

先生はこのような事態に慣れっこなのか
それともコロナ禍で子供の横に立てないことが
イレギュラーだったのかはわからないが、
そのような親の行動に指摘をすることなく
何事もなかったかのように進めていく。

正直私の中ではこの時点で意味が分からなくなっていた。

なぜ最初に言われた『中に入るな』という言葉も
守れないような親がたくさんいるのか
全く理解できなかったからである。

しかし、その時私はあることに気が付いた。

世の中には色んな人がいるという当たり前のことに。

小学校で出会う親はこの地域に住む親たちであり
そこに何のフィルターもかかっていない。

先ほども書いたように保育園では
両親ともに働いているという前提があるので
知らず知らずのうちに親もフィルターが
かかっていたのである。

子供が保育園に行っていた時には
そんなフィルターを意識したこともなかったが
子供が小学校に上がったことでそれを
改めて思い知ったのだ。

自分が子供の頃はどうだったのか?

そこでふと自分が子供の頃はどうだったのか
という疑問が私の中に浮かんできた。

思い返してみると小学校の頃には
色んな同級生がいた気がする。

野良猫などにエアガンを撃ったりする奇妙な子や
私が飼っていたクワガタを嫉妬のあまり
殺してしまう子、
嬉しさのあまり給食で出たフライドチキン(手羽元)を
骨まで食べてしまう子。

当時は特段何も思わずに見ていたが
今から思えばなかなかバラエティに富んでいる。

母から何かを聞いたことはないが、
きっとこんなにバラエティに富んだ仲間たちの
親もなかなか個性的であっただろう。

だが、この感覚は大きくなるにしたがって
少しずつなっていった気がする。

小学校も高学年になるとある程度
自分が付き合う仲間とそうでない人がいることに
気が付くようになるし、
中学校になるとその傾向はより顕著になる。

そして、高校になると受験というフィルターの影響で
明らかに奇妙な仲間が減り、
大学まで行くと行動自体は奇妙ではあるものの
常識はわきまえているような仲間ばかりであった。

そうして社会人になり、
会社に入ると奇妙な人に出会う機会は
さらに減った。

もちろん妙なことを言う人は会社の中にいたし
顧客の中にはいわゆるクセモノも沢山いたが、
そんな方々でも自分と常識が大きくズレていると
思ったことはほとんどない。

しかし、今から考えてみれば
これも大きな社会の中からみれば
フィルターがかかった環境だったのであろう。

フィルターのある環境に慣れる怖さ

こうして自分の過去を振り返ってみると
小学校時代というのは最もフィルターがない時代と
いうことができるのではないかと思う。

それ故に、私は親として小学校に戻ってきたとき
このフィルターのない世界を目の当たりにして
とても驚いてしまったのだ。

私達はしばしば自分が置かれている社会こそ
社会の全体像だと思うことがあるが、
それは実はフィルターがかかった環境なのだ。

例えば、私はnoteで発信をし始めて3年半で
毎日更新をし始めてから2年と少しが過ぎたが、
この世界で交流させて頂いている方々のことを
とても尊敬している。

物事に対する考え方や本から学んだこと、
そして自分の目標など、
色んな面でいつも刺激を頂くことが多いし
記事を拝読する限り自分と大きく異なる常識を
持っている方だと思ったことはない。

なので、時々noteの中にいる方々のように
色んな本を読んで学んだり、
日常生活の中からも色んな学びを得る方々が
世の中のマジョリティかのように錯覚するのだが、
もし本当にそうならば日本人の平均学習時間が
1日に6分などという数字になるはずがない。

統計的な数値から逆算するならば
noteの中にいる方々は明らかなマイノリティなのだ。

つまり、何が言いたいかというと
私達はフィルターがかかった世界に慣れすぎて、
社会を見誤ってしまいがちだと
いうことである。

フィルターがかかった世界で
ずっと生きていくことができるならば
大きな問題はないかもしれない。

しかし、私達は否応なくフィルターのない世界に
入らなくてはならない機会がある。

例えば病気をして 入院したとすれば
どのような方が同室になるかはわからないし、
災害で被災したときに避難所には
どんな方がいるかはわからない。

これらは少し極端な例であるが
私達はどうあがいてもフィルターのない世界からは
完全に距離を置けないものなのだ。

しかし、私が息子の授業参観で他の親を見て
モヤモヤするような感覚を
フィルターのない世界にいることで
感じ続けるのはあまりに辛いことである。

ではそうならないために
私達はどうすればいいのかだろうか。

それは、「人は人、自分は自分」と
割り切ること以外方法はない。

どうしてもこのようなフィルターのない世界に行くと
自分の持つ正義感に照らし合わせて
相手を修正することが正しいと思いがちであるが、
相手は相手なりの正義感に基づき行動をしているのだ。

どうあがいてもお互いに分かり合えない領域は
必ず存在するであろうし、
全てをわかり合おうと努力などしていては
時間がいくらあっても足りなくなってしまう。

明らかな迷惑行為であれば一定の修正は必要であるが
人は人と割り切る以外には実質方法はないのである。

そう思うと、時にはフィルターのない世界に行き
自分の常識から外れた人を見る機会は
実はとても重要なことなのである。

私は毎回(私的に)非常識な親たちに遭遇する
息子の授業参観が嫌であるが、
それはある意味で自分がフィルターのある世界に
目が慣れてしまっているという証でもあるし、
自分の目が社会全体にピントを合わせるために
日ごろ使わない心の筋肉のようなものが
疲労しているという現れなのだろう。

近くのモノばかりを見ていると目が悪くなるように
私達はフィルターがかかった世界ばかり見ていては
どうしても社会全体にピントが合いにくく
なってしまう。

時には授業参観のような場に行って
自分のピントを合わせることは
このような症状に陥らないために
大切なことなのである。

今年の授業参観でも相変わらず
私の常識から外れた行動をする親が
何人もいて、私はモヤモヤしてしまった。

しかし、このモヤモヤこそ
私の目をフィルターのある世界だけに留めないための
苦みのある薬だと思うと、
それも悪くない気がする。

たまには慣れない環境に身を置き
フィルターのかからない世界や
自分とは明らかに属性の違う人と接する機会を
自ら作ることは今後より一層大切になると思う。

そうすることで心の柔軟性を保ち、
社会の変化にもっとフレキシブルに応対できるだろう。

いつもながら今日も若干気が重いが
息子をサッカーの試合に連れて行く。

またペラペラと話し続けるお母さんや
子供の前で堂々とタバコを吸うお父さんを見るだろうが
それも私にとっていい訓練になると思い
前向きに味わっていこうと思う。

ちなみに今日の話はこんなに長くなるとは
自分でも思っていなかった。

これだけ長くなるということは
心の中に結構長らく溜まっていたという
証拠でもある。

日ごろモヤモヤと感じることは
今回のネタと同じように心の中に
長らく溜まっていたものの可能性が高いのかもしれない。

そう思うとまだまだ書くネタは尽きないことに
ニヤリとする私であった。





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