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人が奏でる音楽の価値

昨日の記事でも書いたが、
昨日は娘のピアノの発表会であった。

これは私にとって人生で初めて
ピアノの発表会なるものに参加する機会である。

パンフレットを見てみると
娘が参加する部だけでも50名ほどの参加者がいる。

コロナ禍の時は集合を避けるために
各自自分の演奏が終了したら帰っていたらしいが、
今ではかつてのスタイルに戻り
1日3部に分けて開催される各部の終わりに
参加者全員が集まって写真撮影を撮るらしい。

娘の演奏は前から5番目。
ということは私は残りに45人の演奏を
聞き続けなくてはならないということである。

ここのところ週末は息子のサッカーばかりだったので
たまには文化的な週末もいいかと思いながら
ピアノの発表会を鑑賞していた。

当の娘の出来栄えは若干緊張によるミスはあったが
初めての舞台とは思えないぐらい堂々としており、
ドレスが彼女の背筋をいつも以上に
ピンと伸ばしてくれているような印象で
最期までしっかりと演奏を終えてくれた。

それだけで親としては満足であるが、
娘の演奏が終わったあとに私は集中して
最期まで他の発表者の演奏を聞けるか
心配であった。

だが、いざ始まってみるとそれは杞憂であった。

ピアノの発表会なので大きなステージに
1台グランドピアノが置かれているだけなのだが、
色んな曲が色んな人に演奏されることで
全く違う楽器のように思えることがあったのである。

私はクラシック音楽に極めて疎い。

子供のころから音楽の点数自体は良かったが、
それは単にテストで暗記をしていたからであり、
ヘ長調、ト音記号などという言葉だけで
何となくアレルギーが出てしまい、
ある時から理解をすることを放棄してしまった。

そんな私にとってクラシック音楽とは
よくわからない未知の理屈を証明する
何だか暗い音楽のようなイメージが
どうしても心の中に残っていたのだが、
今回ピアノの発表会を聞いて色んなクラシック音楽の
名曲を聴いていると、
その印象が驚くほど変わったのである。

発表会で演奏されるような短い尺の曲でも
そこには起承転結というか、流れのようなものが
しっかりとあり、
音階の羅列だけなのにそこには歌詞があるかのように
私に情景を思い浮かべさせる何かがあった。

しかも、面白いのは演奏する人によって
その感じ方は微妙に違うということである。

50人もの異なるピアノ教室で習う人が
集う発表会なので
中には披露する曲が被る場合も何組かあったのだが、
演奏する人によってその感じられ方が
不思議なぐらい異なったのである。

もちろんこれは技能の差ともいえるだろうが、
もしかすると、演奏する人がその曲を聞いて感じた
捉え方が演奏に反映されているのではないだろうか。

本来楽譜は人による再現性が異ならないように
書かれたものであるが、
完コピをするだけならピアノは人が弾く必要はない。

時々見るような電子制御で勝手に打鍵するような
プログラムを組んでおけば
恐らく譜面通りのパーフェクトな演奏はできるだろう。

だが、人が弾くからにはそこに奏者の解釈が
必ず入ってくる。

それこそが人の心に響くのではないだろうか。

途中娘は少し退屈そうにする様子はあったものの、
概ね2時間ほどの発表会を
私は全く退屈することなく聞き終えた。

不思議なことに音楽を聞いたというよりも、
映画を1本観たような感覚であったのは
50人の奏者のメッセージのようなものを
感じたからかもしれない。

私が知らなかったこんな世界があったのかと
とても驚くとともに、
自分の娘が次にこの舞台に立つ時には
どんな音楽を奏でてくれるのかを想像すると
とても楽しみになった。

ちなみに、この記事を書きながら
オーケストラの様に複数種の楽器が
同時に演奏するような場合には
どのように各奏者の解釈を合わせていくのかが
とても気になり始めた。

残念ながら私はオーケストラを聞いた経験が
通っていた大学のオーケストラ部の演奏を1度聞いた以外に
なかったのだが、
何だか次はオーケストラも生で聞いてみたくなった。

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