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コンヴィヴィアルな関係でつくり続けるということ

先日、Sustainable Innovation Labという集まりのトークイベントに参加した。

ゲストは緒方壽人さん。参加した最大の動機は、彼の著書「コンヴィヴィアル・テクノロジー」である。昨年の秋、山口周さんのラジオがきっかけでこの本に出会い、大きな影響を与えてくれた。

「コンヴィヴィアル」とはイヴァン・イリイチという哲学者が40年前に出した本の言葉で、「人と道具との共生」を意味するという。イヴァン・イリイチはコンヴィヴィアルな道具として自転車を挙げ、またスティーブ・ジョブズは初期のMacintoshの広告でテクノロジーを自転車に見立てた表現をした。それらを踏まえてこの本が「果たして今のテクノロジーは自転車のようなものになっているのだろうか」と問うていたのが、すごく印象深く残っている。

考えてみれば、iPhone 5sが発売された当時のCMで「You are more powerful than you think」というキャッチコピーがあったけど、当時あのCMを見て、iPhoneはその人の本来の能力を引き出してくれる存在なんだと理解したけど、今ってそうなってるんだろうか、むしろiPhoneの能力に人が寄りかかりすぎてないだろうかと。

そもそも考えてみればテクノロジーというもの自体が他律的であるところ、コンヴィヴィアル・テクノロジーという、言ってしまえば矛盾したこの言葉は、テクノロジーとの向き合い方を共生という考えによって根本的かつ前向きに再定義し、良質な作用を見出していこうとしたものだと理解している。

さて、SHIBAURA HOUSEで開催されたこのトークイベントでは、こうしたコンヴィヴィアルという考え方をふまえながら、「つくり続ける」ということについて思考の風呂敷が広がっていたのだけど、以上の話をふまえて、個人的に印象に残ったことを思いつくまま振り返ってみる。

他者や自身と真剣に向き合いながら

そもそもつくることに対する喜びって、何によって得られるのだろう。

地元の草津市に、信頼できると思った生産者や料理人としか取引をしないことで有名な精肉店がある。以前全国放送のドキュメンタリーでこのお店の人が取り上げていたのだけど、その人曰く、精肉店はただの業者ではなく、生産者と料理人をつなぐ存在になることで肉に新たな価値を与えるべく活動をしているのだという。

番組のなかで、この精肉店の人が提供先のお店に出向く場面があり、料理人と精肉店の人が料理を介してものすごく真剣な眼差しで向きあっていたのがすごく印象的だった。

一方で今のSNSとかって、動画でも写真でも、コンテンツをつくるのがすごく簡単になって、こうして真剣に向き合わなくてもそれっぽく伝えることができる。さほど情報を咀嚼させることなく、瞬発的に「ウケる」ことによって喜びを得られるところがある。twitterもfacebookも、フォローされた友達の数が少ない頃はまだ相手の顔が見えてたけど、1000人とか超えてくると正直顔が見えない状態でほわっと発信してしまう。それでバズったり炎上とかしてしまう。

でも、そんなことで得られる喜びって、自分の血肉にはなり得ない。ずっと満たされない感じになる。

血肉になる喜びって、それは料理人と精肉店の人が見せたような、身近な他者との真剣な「対話」であったり、内なる自分との「対話」のなかで、何かしらの実感を掴む(わかる)ことによって得られるものじゃないかなと。

山内裕さんという人の著書「「闘争」としてのサービス」では、まさにそのような関係からサービスの本質を書かれていてすごく面白かった。闘争という言葉が適切かどうかはちょっとわからないけど、でもこの「闘争」としてのサービスこそ、コンヴィヴィアルな関係を築けるのではないだろうかと思った。サービスも成長し、自身も成長していく、そんな関係。

逆にそのような対話から逃げてしまったり取り繕おうとしてサービスを作ろうとする行為は、他者を「利用するための存在」として置いてしまい、依存させたり思考停止させてしまったりすることに繋がるんじゃないかなと思う。そんな態度で作られたサービスと人との関係は、全然コンヴィヴィアルではないし、持続可能ではないのだと。

役割が固定されず、ともに同じ生活者として

でも、闘争し続けるだけの生活というのも、それはそれで疲れるのだろう。

トークイベントのなかで、緒方さんの言葉の節々で、どこか「ゆるい対話」のあり方を求めているように感じたのだけど、そのような対話(の態度)の多様性というのは、地域における「つくり続ける」という持続的生活行為のなかですごく大事になる考え方なのだと思う。闘争し続ける地域ってちょっと怖いし。

トークイベントの最後でも少し取り上げられていた、地域における「コ・デザイン」の試みなどは、ゆるい対話そのものなのだと思う。デザイナーとユーザーという役割が固定されず、同じ生活者として自分ごととしてつくりあう関係。

自分のなかでは、母の実家近くにできた「みんなのハナレ」みたいな場は、まさにコ・デザインを実践してるんじゃないかと思っている。

むかし「みんなのハナレ」で「フォントの会」という場に呼んでもらったことがあったのだけど、そこではフォントの基礎的なことを共有したうえで、みんなで「みんなのハナレ」のイメージにあった書体を、iPadで作ってみようというワークをした。あれはすごく面白かった。別に正解があるわけでもないのだけど、いろんな人の「みんなのハナレ」の印象や捉え方を、書体を通じて理解しあうような時間だった。

別に教えるとか教わるとかいう関係にならず、一緒に「半径数メートルの」環境・関係を高めあっている感じがして、何より健康的で心地よかったのを覚えている。こういう関係もコンヴィヴィアルと言えるんじゃないかと思う。

ちなみにこれは自己批判でもあるのだけど、これが「草津市」とか「滋賀県」とか、関係の対象を大きくしようとすると、顔が見えなくなったりして、或いは取り残してしまう人たちを生んでしまったりして、いろいろしんどくなるのだろう。地域の多様性とかフレキシビリティって、半径数メートルの関係が「たくさん自由に」作れること(選べること)が大事で、行政や政治の役割は特定の地域活動にスポットライトを当てたりお墨付きを与えることではないだろうと思っていて、、、と、これ以上の話は脱線しそうなのでまた今度の機会にしよう。

コンヴィヴィアル・シティ

昨秋に「コンヴィヴィアル・テクノロジー」を読んだ後、地元・草津という街を見直す機会があった。ある日、ちょっと気分転換にと思って草津川跡地から琵琶湖岸のほうへサイクリングをしたことがあるのだけど、その時に見えた風景が、あ、美しいなと感じて、思わず何枚か写真を撮っていた。

自分が住んでいる草津市は京都・大阪のベッドタウンなのだけど、10年ほど前から「健幸創造都市」というスローガンを掲げ、いわゆる健康づくりや医療福祉を起点としたまちづくりが特徴的となっている。最たる例がこの草津川跡地で、ただ空間を綺麗にしただけでなく、公園にドッグランの広場をつくったり、おしゃれなフリーマーケットを定期的に開催したりすることで、この跡地に賑わいが生まれた。そしてこれまで暗かった川縁の道に街頭をつけたところ、ジョギングやサイクリングをする人も増えたと聞く。

京都や大阪の喧騒にはない、都会でも田舎でもない、程よい空気感を味わうことができるのが、あの草津川跡地の魅力であり、その様子に、美しさを感じたのだと思う。

行政の人たちは健幸創造都市というスローガンは市民に届いてないのではと捉えているようだけど、草津のような街でフリマを楽しんだりジョギングやサイクリングを心地よく楽しむこと、そういう日々の暮らしって健康的であり創造的でもあり、地域に対するコンヴィヴィアルな状態と言えるんじゃないかなと僕は捉えたのだ。

。。。でも逆にコンヴィヴィアルじゃない町ってどういう町なんだろうな。そういうディスカッションが各地であっても面白いかもしれない。

自分は自分で、いま県内市町の職員らと一緒にスマートシティのあり方を考える研究会を開いているのだけど、こういうコンヴィヴィアリティという考え方は研究会のなかでもすごく大事にしていきたいし、その姿勢をもって自分も公私ともにテクノロジーとの付き合いを考えていきたい。

ひとまず時間がきてしまったので、先日の振り返りはここまでにしたいのだけど、すごく貴重な機会だった。Sustainable Innovation Labの皆さんや緒方さん、本当にありがとうございました。

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