第12話「アネモネ」
こめかみにチクリと感じて目覚めると、周り見渡して見知らぬ部屋のベッドで寝ていると理解した。
頭を掻きながら身体を起こして、昨夜の記憶を振り返る。久し振りに恵子とサシで飲みながら盛り上がったのは覚えている。調子に乗って日本酒を飲んだから酔ってしまった。
最後に覚えてる光景は、無機質なドアだったような気がした。
なんでダブルベッドなんだよ。最初の感想だったけど、すぐにダブルベッドの理由がわかった。背後の壁が鏡張りなのも気持ちを高揚させるためなんだろう。
ただホッとしているところもあった。スーツのまま目覚めたってことは何もなかった。僕が無罪と主張するなら、きっと裁判官は無実を証明するものを提出しなさいと言う。
だったら、僕の格好を見て下さい。これが無罪を証明するものです。自信満々で言えると思う。あの派手な音の正体もわかってる。向こうの方からドアの開く音が聞こえると、僕は一緒に夜を過ごした人の登場を待つのだった。
裸足にガウンを羽織った恵子と目が合った瞬間、僕たちは同時に笑っていた。
「おはようとか言う?」と恵子はそう言ってからベッドの方へ歩いた。
「隣で目覚めたら言ってたかも」
「へぇ、それって恋人に言う台詞なんじゃないの」と恵子が笑みを浮かべてベッドの端へ座った。
会話の途切れを誤魔化すようにネクタイを外すと、僕は恵子の背後の鏡を眺めた。頭の中でガウン下から伸びる白い足を浮かべてしまった。もうすぐ三十歳を迎える男と女が何もせずに過ごした。
ラブホテルに入った理由なんてどうでも良いだ。理由なんてゴミ箱に捨てたんだから。
「ねぇ、着替えたいから君もシャワー浴びて来たら?」
「そうしようかな」と僕はネクタイを椅子に掛けて浴室へ向かった。
脱衣所でスーツとワイシャツを脱ぐと、僕は腕時計で時間を確認した。朝の八時過ぎと腕時計の針が訴えている。居酒屋からここへ来たってことは、さほど会社までの距離は遠くない。さっさと支度したら遅刻せずに間に合うかもな。浴室へ入ると、僕は使い勝手のわからないシャワーを使った。
頭から熱いシャワーを浴びてると、だんだんと頭が冴えていく。別にラブホテルで一夜を過ごしても、あいつと僕の関係は何も変わらない。昔に戻らないって言ったけど、あくまでも二人の関係は友達でもなく同期。
ただそれだけなんだよな。
浴室から出てガウンを羽織り、僕はシラフのスーツを手に持って部屋へ戻った。
「ねぇ、こんなところに鏡なんて嫌じゃないのかしら?」と恵子が鏡越しから僕を見て言った。
着替えてないじゃん。恵子のガウン姿を見て心の中で呟いた。鏡越しで目を合わせたままお互いに動かない。ジッと見つめたまま、僕たちは無言という会話をしたような気がするのだった。
鏡の中の恵子と目の前の恵子がゆっくりと振り向くと、僕の顔を見て女の顔をして微笑んだ。
「私ね、軽い女じゃないからね」恵子はそう言ってガウンの帯を緩めた。
恵子の胸元が左右に開いたあと、肩からガウンが滑り落ちた。彼女はこんなにも肌白いなんて知らなかった。桃みたいな乳房を露わにして僕の前で裸体を晒した。
鏡越しに映るスレンダーな裸。僕たちは昔に戻ろうとしていた。それは少しだけ違っていたんだ。昔の二人に戻れないって意味だったかもしれない。椅子に掛けたネクタイだけが揺れ動くの待っていた。
第13話につづく