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世界はキスでできている


世界はキスでできている。現代物理学が教えるところによると、その認識こそが正しい。存在ではなく関係なのだ、宇宙というものは。

そもそも時間ですら単一方向に流れる独立したものではなく、種々の関係で捉えるべきものなのだ。あい、たいするもの。アインシュタインが書いた相対性理論が、それであった。

驚くべきことだが、時間、空間には最小単位がある。時間は10のマイナス44乗秒、長さは10のマイナス33乗センチメートルがその最小単位となる。それ以下のものは時間ではないし、長さでもない。意味がわからないが、そういうものなのだそうだ。

他にもある。机の上と下では違う時間が流れているし、歩いている人と座っている人でもまた違う。時間も空間も一定ではない。高さとスピードで変わってしまうものである。なにもかもが、関係でできているのだ。

宇宙論が長くなったが少し許していただきたい。

すなわち、である。

時間も空間も粒状で、それが至る所に偏在しているわけだ。その「時空間」のユニットは、重力によって振動し移動する。もともといた自空間に旅させられて戻ってくることもある。だからである。タイムスリップも可能なのだ。

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(『The Order of Time』Carlo Rovelliより)

世界は石のような”モノ”でできてはいない。キスのような関係なのだ。石は昨日も今日も明日も、どこにあるか容易に予測できる。しかし明日あなたの息子がどこでファーストキスを覚えてくるかなど、予測するだけナンセンスだろう。

二宮尊徳は、カネはその使い方に意味があって、貯め込むことに別段意味はないと語った。社会的なステータスにしても貴方の実力にしてもどう使うかが問題であって、強大ななにかがあるのだと誇るだけではむしろ有害でさえある。

常識とは違い、世界の実態は明日を予測できるモノやカネにはない。恋とか挑戦とか想定外の事件にあるのだ。「宇宙の実態は存在ではない。動きの方にある」。物理学での認識がそう変わったように、経済上の認識もそう変わってゆかざるをえないだろう。

だけれど恋や友情のような本当の関係、世界を記述する強い絆は優劣から生まれはしない。この辺りに序列が大好きだったこれまでの教育を抜本的に変えねばならない理由が潜んでいるのだ。

仏教や神道、儒教が教えるところでは、我々が住む世界というのは、中道や中庸にあるという。強くも弱くもなく、優れても劣ってもいない、ちょうどいいところに存在する。人の関係とはハーモニーであるからだ。

「僕が僕であるために勝ち続けなくちゃならない」
     『僕が僕であるために』作詞:尾崎豊

尾崎豊はそう歌ったけれど、強いやつとか金持ちとか頭のいいやつに本当の友達ができるわけじゃない。オーケストラでもバンドでも恋人でも、ちょうどいい感じのやつが最高なのだから。

そんなやつなら、汚い言葉を吐かれても頭をはたかれても、罵られても面白い。ちなみにそいつがHipHopのHipというやつなんだそうだ。Coolを超えたCoolなのだけれども、一歩間違えたら痛恨の一撃になる種のもの。

僕たちは強くなりたいと思うし、富も名声も、すべての女性にモテたいとも思う。でもそれだけだと、気がおかしくなってしまう。アドラーが言ったように、精神の病の根源は優劣にあるから。

井坂康志先生が語ってくれたように、正気にもどりたいのである。ソロでなく、ハーモニーを奏でたい。現代の僕たちが僕たちであるために。

正気であるためには、もしくは遥奈さんが言うように、深く癒されるためにはどうしたらいいのか。和音を響かせるためには勝者であってはいけない。優れても劣ってもならないとき、いったい僕らは何を目指せばいいのか。その答えは現代の教育から導き出すことはできないものだ。

僕はここに一案を投げかけたい。

2021年3月25日、竹内美紀先生が主催された「デジタル絵本研究体験会」に出席させていただいた。絵本のやさしさに深く癒され正気に戻ってゆく自分を感じながら、やさしさとは何かについて考える。そんなひとときはなんとも心地がよいものだった。

僕はうちの愛犬モコを、「いい子いい子。おまえは本当にかわいいなぁ」と言いながらかわいがっている。絵本の会では、そのことを思い出していた。モコは老犬になったから、いろいろとわけがわからなくなっていて、ウロウロと歩き回ってドアに激しく頭をぶつけテンパった表情をすることがままある。

そんな時だって、「いい子いい子。おまえは本当にかわいいなぁ」と言ってかわいがるのだけれと、ほどなくモコは正気を取り戻す。表情をみていると本当に分かるのだ。目つきが、かわいくなるから。いや、これは犬好きなら分かってくれると思うのである。

理解を得られず俺の方がテンパりそうな説明をしてしまったけれども、そんな時も竹内先生らの絵本の読み聞かせを聞かせていただければ正気に戻れると思う。俺は本当に、あのとき皆さんから「いい子いい子」してもらっていた気がしたのだ。

いや、俺は正気である。

ならば話を元に戻そう。

儒教に修身という言葉がある。自分を修めるという教えで、儒教の始まりであり同時に究極でもある。

修身斉家治国平天下(しゅうしん・せいか・ちこく・へいてんか)

僕が本当に好きな言葉だ。

身が修まれば家が修まり、家が修まれば国が修まり、国が修まれば天下が平らかになる。自分の正気を保てるものこそが、天下を平かにする王者に推薦される。そんな思想である。

世界の根本原理のようなものは、科学とはまた別個に存在している。自分の身を修めてハーモニーを奏でさせてくれる守り神のようなもの。優れようとするのではなくて、人を原点に戻し自然体で話をさせてくれるものが。

なんと表現したらいいか。

嵐を漂うノアの方舟を支えてくれる神の愛、
Hipを奏でさせる結びの神のような、
すべての煩悩を気付かせてくれる仏の慈悲のような力。

絵本とか物語とかファンタジーには、そんな力が宿っている気がするのだ。世界の根本原理はフィクションの中にある。自分の内側に広がる世界にあるものだから、それも当然だったのかとも思う。

僕たちはもう現実を見てはいけないのだろう。物理学が説いているように、現実は現実にではなくて関係にあるのだから。

時間はすべてから独立した流れではなく、すべてと関係しながら粒状の時空ユニットから別のユニットへと量子的飛躍をして移り変わる。直線的に過去から未来へと勝手に流れる時間など、単なる迷信にすぎない。カンガルーのようにユニットからユニットへとジャンプして移り変わるのである。

人は孤独である。それも過去の物理学から導かれた単なる迷信に過ぎない。我らもまた量子的飛躍をすることで、他者と交じり合うではないか。

孤独を超えた世界は絵本の中にある。宇宙を説明するためには、虚数という現実には存在しない想像上の数字が不可欠だったけれど、恋や友情も同じ様に、ファンタジーという現実に存在しない想像上の界が不可欠なのだ。空想こそが関係をつくり、それゆえ空想は現実を超えた現実なのだ。我らを深い癒しへと導いてくれる意識の深海に住む現実。

時は熟した。人が正気に戻るべき時が。だから、絵空事の力を借りようではないか。銀行残高に気をやるかわりに、この時空で恋をしたいと思うのだ。

夢を見るなって? それはおかしい。なぜなら世界はキスでできているのだから。

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起業家研究所・学習塾omiiko 代表 松井勇人(まつい はやと)

下のリンクの書籍出させていただきました。
ご感想いただけましたら、この上ない幸いです😃

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