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僕の見ている風景,見たい風景

タイトルの「僕の見ている風景,見たい風景」は,嵐の2010年発売のアルバム「僕の見ている風景」から拝借した.自分が嵐ファンであるからというのもそうであるが,今,進行形で起こっていることを書き綴っていたい.ポストコロナを見据えこの先どんな未来を見たいか,日記形式で,書き進めていきたい.事実,noteを初めて一年以上が経過したがその間の更新頻度は非常に低いことになるだろう.なるべく,形骸化せず,地道に投稿していこうと思う.

再生.

 大学2年になりコロナ禍は続いている中でも,少しずつ過去のような日常を取り戻してきた.大学も対面授業が再開し登校する数,学内の人数,様々な数が増えてきている.学食に並ぶ人数が増え3限が間に合わない,対面授業の受け方がよくわからない,などオンラインに慣れてしまったが故の悩みが自分を含めて周りからもたくさん聞かれる.人は数年間今までとは全く違う生活を強いられると,ここまで変わってしまうのか.大学生の自分は20分の2年間であるが,大人の方々は30年,40年と生きてきたうちの2年が変わってしまっただけで,過去には戻れない.
 様々なものが2019年から止まったままでいる.ドームクラス,アリーナのコンサートは徐々に再開してきてはいるものの,歓声は出せない,観客は定員の半分だったものが一部制限など緩和されてきた傾向にあるのは事実だが,かつての歓声,熱気というのはまだ失われていると感じる.学校も,小中学校では「黙食」が続いている.楽しそうに顔を見合わせながら話して食べる給食や,おかわりじゃんけんの盛り上がりはもう戻ってこないのだろうか.運動会などの行事は保護者の制限,応援は拍手だけなどやはり今の子のベースとかつてのベースは大きく変わってしまった.すでに卒業した身から言うと何気ないワチャワチャ一つあったか無いのかでは変わってくるのではないだろうか.今,就活生に叫ばれている「コミュニケーション能力」の形成の基礎には,やはり小学生の会話が関わりそこから良し悪しの区別,他人の感情を考えるといった今では「基本」を形作っていたのは小学校での出来事なのかなと考える.これが,止まってしまったままで良いのか.
 
 個人的にも止まったままでいる2年間だった.高校時代は吹奏楽部に所属していて音楽活動を行なっていたが,高校3年の春からは活動ができなくなってしまった.それ以降,大学に入るまでは何もしてこなかった.大学のサークルに入ってからもフィジカルでの演奏会は11月までできなかった.オンラインの演奏会もあったがやはりライブ感というものは何もなく,ただの演奏動画撮影会になったしまっていた.これは気持ちの持ちようの話だが,今まではお客様がいてこそのライブ・演奏会だったので違和感しかなかった.

感覚を取り戻そう.

 12月,所属している成蹊大学「コンパルサウンズジャズオーケストラ」の定期演奏会があった.この演奏会は自分にとっては大学入学後2回目の対面での演奏会となり,かつ,3,4年生の引退公演でもあった.思うような活動ができなかったコンパル2021だったが,それでもせっかくお客様が来てくださるからにはいい演奏がしたい!と普段なら思うはずだがなかなかその気にもなれなかった.なぜなら,演奏会が少ないせいかモチベーションが上がらず,ほとんど練習に参加しなかったからだ.完全に自分が悪いことのなのだが,今思うと勿体無いことをしたなと感じている.この演奏会が終わってから「来年は前のようにたくさんライブをして,前みたいに楽しみたい」と思った.

 12月末,夜のニュース番組,news zeroで落合陽一氏が来年のテーマについて話をしているのをみた.「猫,キノコ,遊牧民,猫のようにノリで生き,キノコのように知恵なく集まり,遊牧民のようにフットワーク軽くデジタルでどこにでも現れる環境負荷の低い優しい暮らしをしよう」と言っていた.これを聞いて,「あ,俺もなんか来年のテーマ決めるか」という単純すぎるノリで2022年のテーマを決めた.これが「再生.」である.コロナ以降止まってしまったものを動かし始める2022年にしようという思いで考えついたものである.もうすでに2022年の12月を過ぎてしまって振り返る時期ではあるがそれはまた今度.音楽にせよ,普段の生活にせよ,イベントにせよ何かと昔を思い出しつつ,そのテープを動かして行こうと思っていた.

さて,日記?手記?備忘録?みたいな内容と,ただ感じたことを書き綴るノートになるが,誰かに見て欲しいわけでもなく,ただただ,文字に起こさないと忘れてしまうし,忘れたくないことがこれから増えていくと思うので書いてみようという気になった.完全な自己満のノートです.これからも,ただつらつらと...


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