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合鍵

今年も息子がお盆に無事、帰省してくれた。
昨年の夏はそれまでの親子の対立の残滓がまだあり、お互いに少し歯にものが挟まったような感じもあった。が、今年は全くそんな気配はなく、親子三人本当に久しぶりに心から楽しく過ごすことができた。一時間ちょっとだが、何年かぶりに三人でドライブをしたのは本当に楽しかった。学校や就活の様子も沢山聞くことが出来て嬉しかった。
息子本人は勿論、今まで私達を支えて下さった沢山の方々にあらためて感謝の念を深くした。

今の家に越してくる時、不動産さんに
「鍵はご家族の人数分お渡し出来ます。何本に致しましょうか?」
と言われて考え込んでしまった。
当時既に息子は家を出て、一人暮らしをしていた。鍵は本来なら三人家族なのだから、三本貰える。しかし引っ越し当時、私達夫婦と息子との間には、積年の間に出来てしまった、深すぎる溝が横たわっており、半年以上顔を合わせることは愚か、言葉を交わすこともない状態だった。
もしかしたらここに住んでいる間、あの子が私達を訪ねて来ることはないのではないか。そんな風に思っていた。
合鍵を貰ったとしても、渡す機会が近々本当に来るとは到底思えなかった。なので
「二本でお願いします」
と伝えた。夫も異論は唱えなかったから、多分同じ気持ちだったのだと思う。
二本の鍵を受け取った時、一瞬胸が締め付けられるような寂しさを覚えたが、私は夫にすらそれを言うことはなかった。

今年の正月に帰って来た時、私も夫も出勤していたので、鍵を持っていない息子は、私が帰宅するまで家を空けられず、早めに自分の家に帰ることが出来なかった。
今回は夫が休みだからそんなことにはならないが、またいつ鍵が必要になる時があるか、わからない。高齢の両親は今のところ全員健在ではあるが、息子が鍵を持っていてくれた方が私達も助かることがこの先あるかも知れない。
そう思ったので、彼が来るまでに合鍵を作っておいた。不動産屋が鍵をくれるのは入居の時のみとかで、今回は自分で作らねばならなかった。余分なお金がかかってしまったけれど、店頭で出来上がった鍵を受け取る時は、ひとりでに笑みがこぼれた。

一日目の夕飯の後、
「忘れんうちに渡しておくわ」
とさりげなく言って、私は息子に合鍵を渡した。内心少しドキドキした。
「おう、ありがとう」
息子は軽くそう言って、さも当然のように受け取ると、持参したリュックに大事そうにしまった。
ほんの数秒間のやり取りだった。けれど、この当たり前の親子のやり取りが出来るようになったんだ、と胸に迫るものがあった。

あの苦しかった家族の葛藤の日々を、もう一度過ごしたいか、と問われれば答えは家族全員が「否」である。だが、あの日々こそが私達を家族に戻してくれたのだ、と家族全員が思っている。
私達が進むべき道はちゃんと予め用意されていて、私達家族はそこを頑張って予定通りに通っただけなのだ。自分達をごまかして、他の一見楽そうに見えるけれど、ゴールにはほど遠い道を選ばなかっただけなのだ。
その進むべき厳しい道に「さあ、行こう!」と家族を強い力で誘ったのは息子であり、その誘いに無我夢中で答えたのは私達夫婦なのだ。息子は私達夫婦が誘いに応じるのをずっと待っていてくれたのだ。
家族ってなんて素晴らしい関係なのだろう、と思う。

明日、息子は自分の家に戻る。私の帰宅前に出発するようだ。
「気いつけてな。またいつでも帰っておいで。困った事があったら、遠慮なく言うてきてよ」
と言ったら、
「うん、ありがとう。そっちもな。また来るわ」
と息子は破顔した。
最高に幸せな気持ちになり、私も笑顔を返した。
私達を家族にしてくれて、本当にありがとう。
心の中でそう呟いて、寝室に引き取る息子の後ろ姿に手を合わせた。



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