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老婦人と黒い猫に


#一度は行きたいあの場所

大学生活も終わりに近づいた頃、私はそれまで貯めたバイト代を使って、短期の語学留学をする予定であった。行き先はイギリスのロンドン。40日間のホームステイであった。

滞在先は一人暮らしの老婦人宅。事前に挨拶の為手紙を出したら、返事が帰ってきた。黒い猫を一匹飼っている事、学生を受け入れるのは初めてではない事、心配せずに来て欲しい、と書かれていた。文面から温かい人柄が偲ばれた。

しかし、当時は湾岸戦争が一触即発の危機的な状況であった。その影響か、ロンドンでは何度かテロも起きていた。父は行って来い、と言ったが母は反対した。
私は行くつもりで、荷物を整えて出発の日を待っていた。

出発予定日の丁度1週間前、ヒースロー空港に戦車が配備された。空港で銃を提げて、辺りを警戒する兵士の真剣な表情をテレビで見たとき、迷いが生じた。
ツアー会社からは聞きもしないのに「今キャンセルするなら直前ではあるが、例外的に全額返金する」旨の連絡も来た。

断腸の思い、とはこの事だと思った。キャンセルした。悔しいがどうにもならない。

ステイ先にはお詫びの手紙を書き、小さな雛人形一対を一緒に送った。せめてものお詫びの気持ちのつもりであった。返事はなかったが、無事届いてくれただろうか。

当時70過ぎと書いてらしたように思う。だからもうご婦人はこの世にいらっしゃらないだろう。お目にかかりたかった。黒いにゃんこにも会いたかった。どんな生活が私を待っていたのだろう。そしてその経験は、その後の私の人生にどんな影響を与えただろう。

結局、その後もロンドンには行かずじまいである。

当時とは随分違ってしまっているだろうけど、いつかロンドンを訪ねてみたい。あの老婦人のお宅にはご子孫がいらっしゃるのだろうか。それなら会ってみたい。どんなご婦人だったのか、猫はどんな子だったのか、聞いてみたい。

遥か昔のこんな出来事をを思い出しながら、戦争はごめんだと言う思いを強くする、今日この頃である。


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