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負けん気

小学校四年生の時の話である。
学期終わりの保護者面談の時、担任のM先生が母にこう言ったそうだ。
「私はミツルさんの負けん気に負けました」

私は『びびり』な子供だった。
持って生まれた気質も大いにあるのだろうが、恐らくは母親が、行動する前に逐一、『危ないよ!』『それしたら痛いよ!』と声をかけ続けたことに原因があるのだと思う。
だから私は体育が苦手だった。特に器械系が苦手で、跳び箱、鉄棒、平均台などはとても嫌いだった。
跳び箱は迫りくる箱が恐怖だったし、鉄棒と平均台は『落ちたらどうしよう』と反射的に思ってしまい、前にすると身体が強張った。だから体育の時間は憂鬱で仕方なかった。

当時の成績は三段階評価で、上から順に『よくできる』『ふつう』『もっとしっかり』となっていた。
『よくできる』を出来るだけ沢山勝ち取って、親や祖父母に褒められたい私だったが、こんな具合だったから、体育に於いてそれは諦めていた。
しかしなんとしても『もっとしっかり』は避けたかった。例え苦手な体育でも、自分の成績表にそんな汚点は要らない、と強く思い込んでいた。
どうやらその強い思いが、私の意識しない間に表に出てしまっていたらしい。
それが冒頭の先生の言葉になった訳である。

「ミツルさんの体育の実力は『もっとしっかり』です。ですが、諦めないで最後まで跳び箱を跳び続ける彼女の姿を見ていると『先生、お願いやから〈もっとしっかり〉なんてつけんといて』と言われているような気がしました。物凄い負けん気ですね。私、負けました」
先生は笑いながらそう言ったそうである。
その時の私の体育の成績は『ふつう』になっていた。
成績表を見せながら先生のその言葉を家族に話す時、母はとても誇らしそうでもあり、悔しそうでもあった。
誇らしそうなのは分かるが、何故悔しそうだったのか、そして私がどうしてそう感じたのか、大人になるまでよく分からないままだった。

恐らく母に自覚はないのだろう。
推測になるが、恐らく母は私が『ふつう』という評価をもぎ取ったことが、『想定外』だったのに違いない。
先生が私に『折れる』なんて予想しておらず、『この子は今回もきっと、体育は悪い成績に違いない。鈍臭い子だもの。怖がりもいい加減に治さないといけないのに』と思っていたのだと思う。
体育という、絶対に誤魔化せない科目で評価を上げるには、実技がスマートにこなせないとダメに決まっている。
しかし私はそれを『気持ち』で捻じ曲げてしまった。その強引さ、絶対に折れない強さ、に母は戸惑い、呆れたと同時にそら恐ろしく感じたのではなかろうか。
私は先生の評価だけでなく、母の私に対する評価も覆してしまったのである。

自分の子供が想定以上の成長を見せた時、親なら普通嬉しいだろう。
しかしあの時の母は誇らしいというよりも、悔しいという感じの方が勝っていた。
それは母の予想した通りの評価を甘んじて受けるであろう、と予測していた私が、『こんな評価は受けたくない!』と強く拒んで自分の意思を猛烈に外部にアピールしたことで、母のマインドコントロール下を外れたと感じたからなのだろう。
体育の苦手な娘が、母にとっては心地良い、安心な状態だったのである。
本人は気付いていないだろう。しかし、自分の手元から娘が離れようとしていることに対する不安と苛立ちがあったのに違いない。
母もまた、自立していない人だったということである。
かく言う私もまた、母に支配されることに慣れていたのだなあ、と思う。
先生の下す評価が上がることなんてない、私は鈍臭いんだから、とずっと思い込んでいたからだ。

『負けん気』は『負けたくない』という気持ちのことだ。ということは、闘う相手が要る。
闘う対象を自分の中に求めるのが本当の努力なのだろうが、十歳の私にはそんなこと皆目分からなかった。ただ悪い評価を貰いたくない、その一心だったのだろう。今思うと微笑ましい。
自分では不思議と、先生が言うほど頑張ったような記憶はない。ただ『もっとしっかり』は嫌だなあ、とずっと思っていた記憶はある。
私は余程『負けん気』が強い子供だったようだ。

母の戸惑いを目にした時、罪悪感ではなく、何か爽快な感じがあったのはしっかりと覚えている。してやったり、という気分だったのだろう。
私の頑張りに対する正当な評価だったにしても、随分成績至上主義だったんだなあ、と苦笑いしている。
気が遠くなるくらい、遠い昔の話である。