まだ言えないけど
もうすぐ父の日だ。売り場にはブルー系のラッピング用紙やリボンが用意されている。それっぽい商品も多めに並びだした。
母の日ほど多くはないが、20代〜30代くらいの女性が、最近人気の紳士用折りたたみ日傘等を手に思案しているのをちょくちょく目にするようになってきた。
私は最近まで毎年、父の日には必ずメールを入れ、プレゼントを贈る、という事を行ってきた。
恒例行事である。
私は父が大好きな子供だった。
そう思い込んでいたし、今でも好きだ。
だが子供の頃、父の「躾」は厳しかった。厳しすぎた。
箸が正しく持てなかった私は食事の際、まともに持つ事が出来るようになるまで、食事を取らせてもらえなかった。
正しく持てないまま食べようとすると、箸を叩き落された。
温かいおかずは冷め、食卓では黙り込んだ家族の咀嚼する音だけが聞こえていた。
私はその中で、父に監視されながらずっとベソをかいていた。
"サザエさん"の食事風景がどんなに羨ましかったことか。
父が出張等で不在だと、とてもホッとしたものだった。
階段を音を立てて上がろうものなら、足首を掴んで引きずりおろされ、平手打ちを浴びせられた。女らしくない、という理由だった。
小学校低学年の小さな私には抵抗する術はなかった。
殴る蹴る、手加減していたと父はいうし、怪我をしたことは一度もない。が、私を萎縮させるには十分過ぎた。
長じて自分の生きづらさを母のせいにしていた頃、私は父を『味方』だと信じて疑わなかった。
心の奥底で、この人と私は運命共同体だ、と思っていた。
自分の子供に生きづらさを訴えられ罵倒された時、私は堰を切ったように、そして我が子と同じように、母を罵倒し暫く連絡を断った。
その日を期に、ぐっすり眠れるようになった。
その時ですら、私は父を心配していた。
だが、その後に出会った何人かのカウンセラーは、皆父の『躾』の様を聞くと眉をひそめ、人によっては涙を浮かべた。
私は長い間、その涙の意味が理解出来なかった。
あるカウンセラーさんに、『今だったら通報レベルですよ』と言われて驚き、呆然とした。
私には指摘を受けるまで、酷いことをされているという実感が全くなかったのである。
被虐待児が親を庇うというのが、なんとなくわかる気がした。
私は不器用で、要領が悪く、色々すんなり出来ない子で、親と世の中にとって良くない恥ずかしい子だから、厳しくされて"当然"なのだ、と言う思いが、私の心の奥深くに刻みつけられていたからだと思う。
そしてそれでも『父が好き』と私が思い込んでいたのは、自分の為だったに相違ない。
『好きだから見捨てないで欲しい』『私は嫌われてはいない、愛されていると思いたい』という必死の気持ちが、私をそう思わせていたのだろう。
気付いたときは物凄いショックで、一晩泣き明かした。
自分が可哀想だったと、産まれて初めて思った。
夫も声をかけられなかったというくらい、激しく凹んでいた。
それ以来、私は父とも暫く距離を置いた。
父にもそうせざるを得なかった、苦しい過去があるのだという事をしっかり腹落ち出来たのはつい最近の事である。
両親とは今は普通に話せる。
でもまだ、心から父に『ありがとう』と言える気は、今の所していない。
でも急がない。
長い時間をかけても、本当に言える日が必ず来ると思っている。
起こる事は全て、『私』発なのだから。