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新しい師

こちらの楽団に入ってから早いものでもう10ヶ月近くになる。気さくで明るく楽しい多勢の仲間に恵まれて、幸せに思っている。

今までに居たどこの楽団でも、指導の先生(音楽監督)が存在した。今の楽団の音楽監督はN先生という。
N先生は元々、日本有数のオーケストラのクラリネット奏者である。何年か前に定年退官されたばかりだ。
特にバスクラリネット奏者としての先生の名声は高く、
『バスクラリネットといえばN、Nといえばバスクラリネット』
と一部のクラシックファンの間で言われるくらいの名手だったと聞いている。
退官記念公演の演目がレスピーギの『ローマの松』だったというのも頷ける。バスクラリネットの長いソロがきかせどころの名曲だ。

先日、長らく使っていない楽団所有のバスクラリネットを使用しなければならなくなり、事前にまともに音が鳴るかどうかのチェックを先生にしていただこう、という事になった。団長が倉庫から練習場に持参して、先生に手渡した。
「ふーん、随分古い物みたいだねえ」
と言いながら先生が組み立てて息を入れた瞬間、なんとも言えない太い素晴らしい音がして、みんなで
「流石~」
と言っていたら団長がポツリと、
「あれ、プラスチックなんだよね」
と言うので驚いた。

プラスチック製の楽器はどうしても響きが薄く、音色が悪い。あまり楽器として優秀な部類には入らない。というか、楽器とは呼べない、と言い切る人も居るくらいである。
が、先生の音を聴く限りでは、十分オーケストラでも使えそうに思えた。

件の楽器は
「ま、大きな問題ないんじゃない?」
という先生の軽い一言で使用される事になったのだが、それを吹く事になっているクラリネットの若手メンバーのTちゃんは、
「私にはあの音は出せません~」
と恐れ入っていた。

一方で、先生はとても気さくなお人柄でもある。
私の自宅のすぐ近所にお住まいで、時折練習の行き帰りの電車が一緒になる。その道中、私の勤め先が近くのスーパーである事をお話した事があった。あああそこ、僕よく行くよ、とは言っておられたのだが、私は出会うと恥ずかしいので敢えてどこの売り場に居るとはお伝えしなかった。
ところがつい先日、レジに入っていると、
「やっと見つけた!在間さん!」
と言いながら、レジの前でお茶目に扇子を振って下さったのには恥ずかしいやら、畏れ多いやらで、身の置きどころがなかった。
私は職場の人には自分が楽器を演る事を全く話していない。
「誰?知り合い?」
と聞かれて、お茶を濁すのに苦労した。
後日団長にこの話をしたところ、以前いた団員の職場(百貨店)にも出没されたそうだ。スーパーとか百貨店勤務と聞くと、必ず訪ねていく事にしておられるらしい。

合奏練習時は冬でも半袖である。指揮をしていると暑いそうで、これで丁度いいそうだ。黒いTシャツで、胸元にかわいいクラリネットのキャラクターが描いてある。
最初は先生の風貌とのギャップに違和感を感じたが、もう慣れてしまった。
エネルギッシュなご指導で、いつも引き込まれる。時間があっという間に経ってしまう。

あくまでも『指導者』であって『団員』ではないのだが、個々の楽団員の事をよく把握しておられる。
1月の合奏練習終了直後、先生は指揮台から顔を上げると、
「〇〇さん!成人おめでとう!今年は式典あって良かったね!」
といきなり打楽器の女の子に向かって仰った。
楽団員からは自然と拍手が沸き起こり、彼女は恐縮してペコペコしていた。
70名近い団員のそんな事まで覚えてらっしゃる事に、とても驚いた。

プロ奏者と聞くと、こちらはつい身構えてしまいがちである。
N先生のように『降りてきて』下さると畏れ多いが、とても有り難く嬉しい。
一芸に秀でた人は、人間的にも優れた面をお持ちなのだな、と思っている。
これからもご指導仰げる事を、嬉しく楽しみにしている。